
本年4月、自由民主党の第93回党大会で高市早苗総裁は「憲法改正」につき次の通り演説していました――「議論のための議論」であってはなりません。私たち政治家が、国民の皆様の負託に応えるために行うべきなのは、「決断のための議論」なのです。(中略)国会においては、「結論のための議論」を進めてまいりましょう。そして、改正の発議について、「なんとか目途が立った」と言える状態で、皆様とともに、来年の党大会を迎えたいと考えています。
しかしながら、先月25日閉幕した第221回特別国会の憲法審査会では「議論の積み重ねは認められつつ、具体的な改憲条文起草の着手までには至」りませんでした。改憲プロセスは時間を要するものであり、これからのち国民的議論を誘発する上でも今このタイミングで、「決断・結論のための議論」進展が求められていたにも拘わらずです。「議論のための議論」として終局を迎えたことは極めて残念です。
マルクス主義の唯物史観では上部構造とは、「社会の経済的土台(下部構造)の上に形成される政治・法律・宗教・道徳・芸術などの意識形態(イデオロギー)と、それに対応する制度・組織。下部構造による制約を受けるとともに反作用を及ぼす」とされています。21世紀に入り此の下部構造である経済的土台がグローバルに激変しているにも拘らず、最重要の上部構造とも言える日本国憲法が施行後80年近くも変わらずにいて良いのかと、非マルキストの私でも思わずにはおれません。
憲法とは、「国のかたち」を決める一番の基であります。私は、我国が「自国の憲法を自国民の手で作らなかった」ということ自体が、そもそも普通ではないと思っています。同じ敗戦国のドイツは独立後、自らの憲法を主体的に創りました。日本国はこれまで通り、進駐軍にある意味押し付けられた時代錯誤の現行憲法を、金科玉条の如く後生大事に守り続けて行くべきなのでしょうか。
私自身は、日本及び日本人の主体性喪失を招いてきた「マッカーサー押し付け憲法」、取り分け本質的な問題を孕む第九条を、我々が自らの手で創り直すことは極めて正しいと考えています。共産主義国としての東欧諸国が崩壊に至るまで大体70年掛かったように、物事の移り変わりというものは大体60年から70年を一つの区切りとし、又その変わり方は何れのケースでも主体性を取り戻すということであります。
「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るるものは必ず人に諛(へつら)ふものなり」(福沢諭吉)――独立国を維持することは「ありがたい…有ることが非常に難しい」ことです。独立には主体性に基づく責任というものが伴わねばなりません。我々は、独立自尊の精神に基づかない現行憲法の異常性に如何に処すべきかを今こそ問わなければなりません。我々日本人自身が、自らの国を自らの判断で自らが守るべく、「日米安保体制および第九条に如何なる見直しが必要か」「日本国憲法かくあるべし」と熟慮を重ねるべきです。
現代ビジネスに先月30日、『高市総理を見限ったキングメーカー麻生太郎が決めた「次の総理候補」【狙いはやっぱり憲法改正だった】』と題された記事もありましたが、何れにせよ、来月にも召集される臨時国会では消費減税や定数削減等々は勿論、憲法改正の国民投票に向け主権者たる国民に対し、有益な判断材料の提供に努めて貰いたいものです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2026年8月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。







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