明治天皇の4人の皇女は全員が皇族と結婚し子孫を残す

明治天皇の皇女は4人全員が伏見宮系の男子に嫁いでいる。今回も、新刊『誤解だらけの皇位継承真実』(清談社)や『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)をもとに、明治天皇の4人の皇女の婚活事情を紹介する。

皇女の結婚相手はなぜ伏見宮系だったのか

これは特別の意図はなく、それまでの習慣に従ったものだ。

つまり、江戸時代の初めは、皇女は宮家か五摂家と結婚し、適当な相手がいなければ尼になっていた。さらに、五摂家への降嫁も霊元天皇の時が最後で、その後は、宮家か尼かだった。そうしたなかで、仁孝天皇の皇女和宮が徳川家茂と結婚したわけで、これは前代未聞の出来事だった。

また、姉の淑子内親王は、閑院宮愛仁親王と婚約したが、親王が死んだので、独身のままとなり、やがて桂宮家という女性宮家を創設した。二条城本丸御殿は彼女の邸宅を移転したものだ。

明治になると、皇族男子を僧籍に入れる制度が廃止になり、すでに入っていた者も還俗したので、候補者はいくらでもいた。

ただ、彼らの多くは皇籍離脱させられ華族になったが、皇女と結婚した相手は新しく宮家を創設させてもらった。

伏見宮系と言ったが、最初からそうだったわけではなく、允子内親王は有栖川宮栽仁王が候補だったのだが、その死去で実現しなかった。ただし、この結婚については、栽仁王の叔母である伏見宮貞愛親王の妃となった利子女王が神経を病んでいたことで、明治天皇が躊躇していたという証言もある。

いずれにせよ、4人の内親王と結婚相手の年齢は以下の通りだ。

  • 常宮昌子内親王 1888年9月30日 竹田宮恒久王 1882年9月22日 夫が6歳上
  • 周宮房子内親王 1890年1月28日 北白川宮成久王 1887年4月18日 夫が2歳9か月上
  • 富美宮允子内親王 1891年8月7日 朝香宮鳩彦王 1887年10月2日 夫が3歳10か月上
  • 泰宮聡子内親王 1896年5月11日 東久邇宮稔彦王 1887年12月3日 夫が約8歳5か月上

この4人の内親王はいずれも子孫を残し、とくに、今回の皇室典範で皇族の養子になりうるとされた条件に(15歳になればだが)合致するのは、東久邇家の6人と竹田家の2人だ。各宮家の概要は以下の通り。

朝香宮家と東久邇宮家

朝香宮鳩彦王は、ゴルフ好きの宮様として知られ、1930年に鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県膝折村に移転したとき、朝香宮にちなんで朝霞町(現朝霞市)となった。漢字が違うのは、畏れ多いと考えられたからだ。朝香は、久邇宮朝彦親王の第8王子だが、伊勢の朝香山からとられたものだ。1910年には明治天皇皇女允子内親王と結婚した。

朝香宮鳩彦王 Wikipediaより

陸軍大学を卒業し、1922年にフランスに留学したが、翌年、北白川宮成久王の運転する自動車がノルマンディーで交通事故を起こし、成久王は薨去した。鳩彦王は重傷を負った。看病のため渡仏した妃とともにパリ万国博覧会でアール・デコ様式に目覚め、1933年に完成した白金台の朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)はアール・デコ建築だ。

日華事変のときは、上海派遣軍司令官であり、南京攻略戦に参加したことから、南京事件について責任の一端があるという人もいるが、戦犯指定は免れた。

第1王子の朝香孚彦(あさか たかひこ)は、陸軍で航空関係の仕事をして操縦桿も握った。戦後、日本航空に勤め、カトリックに改宗した。夫人は津藩主・藤堂家出身だ。長男の朝香誠彦は、東京芸大チェロ科卒でCBSソニーに勤務した。長州出身の内海男爵家出身の夫人との間に男子がいる。

鳩彦王の第2皇子正彦王は、音羽侯爵家を創設したが、海軍軍人としてマーシャル諸島のクェゼリン島で戦死し、絶家になった。

戦後初代の首相だった東久邇宮稔彦親王は、久邇宮朝彦親王の9男だ。明治天皇の第9皇女泰宮聡子内親王と結婚した。陸軍大学校を卒業して、聡子内親王と結婚した5年後の1920年から、6年間、フランスに留学し、サン・シール陸軍士官学校のあと、国防省理工科学校(エコール・ポリテクニーク)で、政治、外交などを学んだ。たびたびの帰国要請を拒み、フランス生活を謳歌したが、大正天皇の崩御を受けてしぶしぶ帰国した。

帰国後は軍の近代化を提唱するなどして煙たがられ、地方勤務も多かったのだが、皇族きっての英才としての期待は大きく、第2次近衛内閣の辞職に際しては、首相にという声もあった。しかし、内大臣の木戸幸一が皇族首相のもとで開戦したら皇室の責任を問われるとして忌避した。

ポツダム宣言受諾後は、軍の反乱を回避するために首相を引き受け、混乱期の乗り切りに成功した。戦時中の和平工作も含め、近衛文麿や緒方竹虎と近いところで行動していたといえる。

総理辞任後、「敗戦の責任を取るため」皇族の身分を離れると賀陽宮恒憲王などとともに表明して、旧宮家の皇籍離脱の伏線をつくった。新宿西口に闇市の食料品店を開店したり、新宗教「禅宗ひがしくに教」を作ったり、安保闘争のときは、石橋湛山、片山哲と岸首相に辞任を迫った。1990年に102歳で死去した。

子の盛厚王は、陸軍の軍人だったが、1943年、昭和天皇第1皇女の照宮成子内親王と結婚した。北海道炭礦汽船や帝都高速度交通営団などに勤めていたが、1961年に成子夫人は癌で死去した。男3人、女2人の子が残された。信彦(全日本野球会議名誉会長)、秀彦(山階鳥類研究所理事長、壬生家の養子となり基博と改名)、真彦(伊藤ハム)の3兄弟ともに男子があり、孫も順調に増えている。

盛厚王は成子夫人の死後に寺尾佳子と再婚している。稔彦王の母親の実家も寺尾だから、何かつながりがあるのかもしれない。この2人の間にも2人の男子があり、兄の盛厚は寺尾家の養子になっているが、弟の盛彦は東久邇姓だ。この2人は昭和天皇のDNAは引かないが、明治天皇や稔彦首相の子孫だ。

一方、稔彦は盛厚王のほかに3人の男子がいた。次男の師正王は関東大震災で圧死してしまった。三男の彰常王は、青蓮院の場所にちなんで粟田侯爵を名乗った。もっとも最後に創設された侯爵家だ。2人の男子がいる。

4男の多羅間俊彦は、陸軍予科士官学校に在学中に終戦。元サンパウロ総領事多羅間鉄輔未亡人キヌの養子となってブラジルに移住した。多羅間アルフレッド稔彦という男子がいる。多良間家も夫人実家の花城家も沖縄にルーツがあるようだ。

北白川宮家に連なる皇族たち

戊辰戦争の歴史にあって輪王寺宮として登場するのが伏見宮邦家親王の第9王子能久親王だ。大政奉還の半年前に上野寛永寺に入り、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承したが、鳥羽・伏見の戦いのあと、徳川慶喜の依頼で東征大総督・有栖川宮熾仁親王に対して、駿府城で慶喜の助命と東征中止を嘆願した。

北白川宮能久親王 Wikipediaより

拒否されて江戸に戻り、彰義隊に擁立されたり、榎本武揚の手引きで仙台藩の白石城へ入り、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。プロイセン(ドイツの前身)に留学したが、ドイツ貴族の未亡人ベルタと婚約して結婚の許可を申し出たものの拒否され、あきらめて帰国。陸軍軍人となった。

1895年に日本領となった台湾征討の近衛師団長として出征したが、現地でマラリアに罹り、台南で薨去した。台湾の守護神的な存在となり、台北に台湾神宮(台湾神社)が創建された。台北の圓山飯店はその跡に建てられたものだ。

能久親王には6人の男子がいて、次男以外が成人した。そのうち、3男成久王が正室だった宇和島藩主・伊達宗城の娘(島津久光の養女)の子で、これが北白川宮を嗣ぎ、明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚した。

庶長子の恒久王(1882~1919年)は、竹田宮家を創設し、明治天皇第6皇女昌子内親王と結婚し、残り3人は臣籍降下し、爵位をもらった。北白川宮成久王は、陸軍軍人となり、フランスに留学した。房子妃も合流し、パリの社交界で活躍したが、交通事故で死んだのはすでに書いた通りだ。同乗の房子妃と、同じく留学中の朝香宮鳩彦王も重傷を負った。

子の永久王は13歳のときに父が死んだので宮家を嗣ぎ、陸軍軍人になったが、1940年に張家口で不時着した軍用機と接触して事故死した。妃は尾張藩主・徳川慶勝の子である義恕の娘祥子で、皇太后宮女官長として香淳皇后に長く仕えた。三島由紀夫の憧れの人で、短篇小説『玉刻春』の主人公のモデルだ。

永久王の子の道久は、父の死のときに3歳だった。学習院大学政経学部卒業後、東芝に勤務し、退職後は伊勢神宮大宮司となり、現在は霞会館理事長、神社本庁統理だ。3人の女子がいるが、男子はなく、男系としては断絶が予想される。

道久王の妹である肇子は、その美貌から今上陛下のお后候補と言われた時期があったが、島津玉里家(久光のために設けられた分家。公爵)の夫人になった。

竹田宮家とその子孫

JOC会長の竹田恒和や作家・竹田恒泰の活躍で知られる竹田宮家の創始者が恒久王だ。北白川宮能久親王の第1王子で、妃は明治天皇の第6皇女昌子内親王だ。陸軍軍人として日露戦争に従軍したが、1919年、スペイン風邪のために亡くなった。

竹田宮恒久王 Wikipediaより

子の恒徳王は、明治天皇の外孫としては最年長だ。陸軍軍人として関東軍などで活躍した。もともとスポーツ好きで、特に馬術が得意で、戦後、日本体育協会専務理事、JOC委員長、IOC理事、日本馬術連盟会長など多くの役職に就いた。夫人は三条公爵家出身だ。

3人の男子がいたが、長男の恒正は慶応大学やMITで学び、三菱商事に勤め、日本ゴルフ協会会長などを歴任している。夫人は東武グループの根津嘉一郎の娘。男子がいる。

次男の恒治は満州国新京の生まれ。慶応大学法学部から伊藤忠商事。駐ブルガリア大使も務めた。夫人は岡田茂元三越社長の娘で、男子が2人いる。

3男の恒和は皇籍離脱の直後に生まれているので、皇族であったことはない。馬術でミュンヘンやモントリオール五輪に参加し、JOC会長などを務めている。長男が作家の恒泰で、次男もいる。

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