
日本人が洋画を見なくなって久しいが、今年の夏は『Michael/マイケル』が世間の話題を席巻した。2009年に亡くなってから17年が経ってなお、この実力はさすがキング・オブ・ポップである。
いまや一家で同じ宗教に入っていたりしないと、親が昔読んだ本を「子どもも読んで語りあう」ことさえ難しい時代だ。世代を超えて “みんなが知ってて大好き” なことを前提にできるスターも、マイケルが最後だろう。

で、ぼくも見に行ったわけだが、正直、見終わって「うーむ」と唸ってしまった。マイケル役の熱演と、劇場に名曲の数々が響き渡る爽快さに比べて、どうにもストーリーがすっきりしない。
映画版マイケルの主たる悪役は、子役時代からずっと搾取し続けた父親である(これ自体は実話)。というか “主たる” どころではなく、彼がこの世の悪のすべてだ。他は全員がいい人で、すべての不幸は父親だけから来る。
そんな単純な人生が「あるわけがないだろ」と、ふつうは思うのだが、ところが “ふつう” じゃダメなんだ、映画は意識高く作れッ! みたいな人たちが、近年の業界にはゴロゴロいたりする。
大学でゴロゴロしてるだけならまだマシで、よそ様の作品に首を突っ込んでは「うおおお意識が低い! 博士号を持つ専門家に監修料を払え!」とタカり出すゴロツキもいる。そのせいでいま、”悪役” にできるキャラは限られてるんだと思う。

暴力を振るう家父長的な父親を、悪いやつにしておく分にはクレームはつかない。逆にそうでない人にも “悪さ” があることを描くと、偏見ダーとか冷笑系ダーとか絡まれかねないので、悪役はぜんぶ彼に背負ってもらいましょ。
…そんな苦境が製作陣にはあったのかなと、つい深読みしながら見ちゃって、モヤモヤしつつ劇場を後にした。前から書いてるとおり、ポリコレに沿った過去の切り取りは文化を破壊するのだ。

というか、いまはまだ “邪悪な父親” がスケープゴートになるだけで済んでるけど、マイケル本人だっていつそうなるかわかったものじゃない。彼のヒット曲には、心の深い部分から来る女性嫌いを感じさせる歌が多いからだ。
もし「えっ?」と思ったら、そりゃちゃんと英語聞いてないだけです。ムーンウォークを初披露して映画でも山場になる「ビリー・ジーン」は、赤ん坊の認知を迫る女性に「あいつは嘘つきで、俺の子じゃない!」と叫ぶ歌。
Mother always told me, “Be careful of who you love, and be careful of what you do, because the lie becomes the truth”
(ママにいつも言われてた、「誰を好きになって、なにをするかは慎重にしなさいね、嘘だってホントにされちゃうんだから」)Billie Jean is not my lover, she’s just a girl who claims that I am the one, but the kid is not my son
(ビリー・ジーンはぼくの恋人じゃない、彼女がぼくが妊娠させたって言ってるだけ、生まれた子はぼくの子じゃない!)
拙訳(強調も)
歌詞の中でも真実は不明だが、”She called me to her room” と部屋に誘われたことは認めているので、男が居直っている可能性が高い。いまこんな曲がヒットしたら、オープンレターが出て放送禁止になるかもしれない(笑)。
もっとヤバいのは1988年に全米1位の「ダーティ・ダイアナ」。ダイアナ・ロスを非難した歌詞だとか(本人は否定)、ダイアナ妃から許可を得た上で英国でもコンサートで歌ったとか、とかく噂や伝説が多すぎる曲である。
And then I ran to the phone, saying baby “I’m all right” ……She said “He’s not coming back, because he’s sleeping with me”
(すぐ恋人に電話して言ったんだ、「心配しないで」と……でもダイアナが受話器を奪って「彼は帰らないわよ、あたしと寝てるから」って)Dirty Diana, No ! × 8
(汚いダイアナ、もう消えて!: 8回連呼)
グルーピー的にすり寄り、スターを “落とそう” とする女性を呪う歌詞なのだが、ビデオを最後まで見ると有名な「スリラー」と同じどんでん返しが待っている。闇が深すぎる、というやつである。
そんなわけで、気に入らない相手にばかり因縁をつけ、レッテルを貼り排除するのが “意識高い” と思う人に媚を売るのはムダで、つけあがってそのうちマイケルの曲自体が禁止になります。なにせ「ミソジニー」ですからねぇ。

もっとも、それを「フェミニズム」のせいにするのは、一部の人の悪い癖だ。フェミニストが必ずキャンセルをしかけるとは決まってないし、女性とは関係のないキャンセル屋もいっぱいいる。
なんせ、明治時代の教員の素行をあげつらい「コイツに習った戦前の学者とか、全員ダメ!」といった空気を振りまきながら、”人文主義” を自称する人もいるのが令和である(苦笑)。フェミニズムは問題の原因ではない。

では、どこに原因があるのか。
問題を抱えた人を見たときに、それを理解しようと試みず、単に排除する。悪しきものに触れたとき、自分にも「そうした側面はあるのでは?」と内省せず、罵ることで自分は無縁だと思い込む。
そうした「共感を忌避する社会」こそが、ここ20年ほどの欧米、そして令和の日本を分断で引き裂き、キャンセルを横行させてきた犯人なのだ。

それを変えるには、どうすべきか。
ひとつの道は、①相手を理解しようと努めることである。とりわけ「なんだコイツ?」と違和感を抱かせる人に対してほど、意識してそのように接してゆくことが、やがて自分の見方も変える。
たとえば(品切れしていて今年逆に注目された)西寺郷太氏による評伝で、こうした挿話を読んだことがあれば、紹介してきたマイケルの歌詞の聴こえ方も、ガラリと違うものになるだろう。

18歳でデビューしてからの数年間のジャッキー〔長兄〕は、三男ジャーメインとともに遊び盛り。各地で彼らに群がるグルーピーとの「交遊」を楽しんでいたようだが、父親にバレないかびくびくしていた。しかし、途中からは父親ジョーも上の兄弟らと一緒に女の子の味を覚えたので、お咎めなしだったようだ……。
この父親と兄がホテルで行う性行為は、まだ幼いマイケルの心に大きな傷をつけたとも言われている。そして、マイケルにとって不可解だったのは、「女の子」の方が嬉々として父や兄に群がっていたことだったという。
西寺郷太『マイケル・ジャクソン』36頁
(段落を改変、……は原文)
よりいっそう大切な、もうひとつの道は、②マイケル本人が生前に歌っている。もともと彼のベストに挙げる人が多い歌だから、たぶん知ってると思うし、ぼく自身もいちばん好きな曲である。
それを思い出してほしくて、こうしてnoteを書くとともに、『Wedge』10月号での連載「あの熱狂の果てに」でも、西寺氏の著書を参照しつつ、マイケルの実人生と映画の異同を論じてみた。
では、本日最後の曲を、今月の連載を閉じる一節とともに。ぜひ、キャンセル屋たちに心を乗っ取られた社会に、この歌が響いて、ゾンビの姿からもう一度、ヒューマンなネイチャーを取り戻す人が増えますように。
ネバーランドの夢が実らない理由は、人がなにに傷つきなにに救われるかを、あらかじめ決めることができないからだ。どこかよそに邪悪さの根源を求めて、それを取り除くという発想だけで、この世の中が楽園に変わることはない。
そうでなく「鏡に映る自分を変えることが、世界をよくする一歩になる」と、マイケルは『BAD』から4曲目のシングルで歌った。もし私たちが世界で、私たちが子どもたちなら、映画が描く父親のようなその悪もまた、私たちから切り離して見ないふりをすることはできない。
『Wedge』2026年10月号、10頁
参考記事:


(ヘッダーは、大好きなMashupの動画より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年9月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください







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