医師に倫理観はない。新たな制度設計が必要だ

東 徹

「ODする人ってなんでODしたあと救急車呼んだり病院行ったりするの?」

医師を名乗る匿名のXアカウントが、こんな投稿をした。8000を超える「いいね」がついている。

精神科医として、この投稿には看過できない点が多々ある。本稿の目的は投稿者個人を責めることではなく、その背景にある医療制度に横たわる、もっと根本的な問題を問い直すことにある。

知識、自覚、発信という三層の問題

この投稿には、三つの問題が重なっている。

一つ目は知識だ。ODの背景は一様ではない。死にたくて飲む人もいれば、耐えがたい苦痛から一時的に逃れるために飲む人もいる。そして、死にたい気持ちと助かりたい気持ちは、同じ人の中に同時に存在する。飲んだ後に怖くなって救急車を呼ぶのは、矛盾でも何でもない。救急に関わる医師なら知っておくべき基本である。

二つ目は、その無知に無自覚なことだ。知らないことを恥じるのではなく、患者への疑問として公然と掲げている。

三つ目は、それを患者本人の目に触れる場所で、医師を名乗って発信していることだ。

もっとも、本当に知らずに書いたのか、知っていて皮肉として書いたのかは、投稿からはわからない。後者であれば、一つ目と二つ目は知識の問題ではなく、倫理の問題に置き換わる。いずれにせよ、三つ目の発信は倫理の問題であり、そこが本題である。

「医師」の看板を借りた匿名発信

患者への暴言そのものは、新しい現象ではない。m3.comの医師専用掲示板には、以前から公にはできない本音が書き込まれてきた。ただしそこは、医師資格を確認された者だけが書き、医師だけが読む閉じた空間だった。

Xは違う。名乗っている資格は、読む側には確認できない。それでも「医師」を名乗れば、その肩書きの信用で注目が集まる。匿名でも法的責任は残るが、個人としての説明責任は見えにくい。そして、過激な発言ほど拡散される。

投稿者が本物の医師なら、専門職の信用を使って患者を揶揄していることになる。仮に医師でなかったとしても、医師の肩書きを借りた発信が医療全体の信用を削っていることに変わりはない。どちらであっても、担保にされているのは医師という職業全体の信用である。

匿名性そのものが悪なのではない。滝山病院事件では、内部の誰かが告発したからこそ虐待が明るみに出た。匿名性は、弱い立場の人を守るためにも使える。問題は、それが反論の場を持たない患者を攻撃するために使われていることだ。

倫理的な医師がいるのは、言うまでもない

医師の倫理観が昔より低下したのかどうかは、わからない。確かなのは、倫理観を欠いた本音が可視化されるようになったことだ。

もちろん、倫理的な医師はたくさんいる。しかし、倫理観のない医師が少なからずいることもまた確実である。

付け加えれば、SNSでの暴言よりはるかに深刻な倫理違反も、毎年起きている。厚生労働省によれば、令和6年度に架空請求や付増請求などで指定取消等の処分を受けた保険医療機関等は23件、登録取消等を受けた保険医等は18人だった(いずれも取消相当と歯科を含む)。医療機関の取消処分23件のうち20件は、保険者や医療機関の職員、被保険者などからの情報提供が発覚の端緒だった。

そうである以上、「医師には倫理観がある」という前提で組まれた制度は成り立たない。

私は、医師のSNS発信を規制すべきだとは考えていない。こうした発信によって医療への信頼が下がるなら、それは医師という資格への根拠のない過信が修正されるということであり、受け入れるべきだ。変えるべきは、過信を前提にした制度のほうである。

倫理を前提にした制度の帰結

SNSでの暴言と診療報酬の不正請求は、本来別の問題である。しかし、医師が専門職としての倫理に従って行動するとは限らないという点では、共通している。

出来高払いでは、医療の必要性や成果にかかわらず、診療行為を増やせば収入が増える。もちろん審査や監査はある。しかし、制度そのものが、医師の利益追求を適切な医療へと誘導する仕組みにはなっていない。最後の歯止めは、医師個人の倫理観に委ねられている。

医療制度が医師の倫理に依存することの危うさを象徴するのが、私が以前解説した滝山病院事件である。院長は、かつて不必要な中心静脈栄養などで診療報酬を不正に請求した朝倉病院事件の院長だった。保険医の登録を取り消された後に再登録を認められ、滝山病院の院長になっていたのだ。資格制度もまた、倫理の担保にはならない。

滝山病院事件はなぜ起きたのか NHK番組解説|東 徹 精神科医
滝山病院に関するNHKの番組を見て 驚いた方も多くおられると思いますが、 衝撃だけは感じても、 それが何なのか、 何故起こったのか、 背景にあるものは何か、 などはおそらく一般の方にはほとんどわからないと思います。 ですので、 真実はわから...

問題は出来高払いに限らない。精神科病床にも、患者を退院させずに病床を埋めておくことが、経営上合理的になりうる構造がある。他稿で述べたとおり、精神科特例の下で病床を増やし続けた民間病院では、それが現実の収益モデルとして定着した。倫理に期待した制度は、倫理ではなく収益構造に沿って動く。

就労支援B型の「闇」を追ったら、精神科病床という本物の巨大な闇が現れた
就労継続支援B型を巡る「公金チューチュー」批判が止まらない。確かに、事業者が多額の給付費を受け取り、障害者への工賃は月2万円台という構造を見ると福祉システムを使った闇搾取に見えてくる。だがこの構造を掘り下げると、B型よりはるかに巨大な闇に突...

倫理ではなく、インセンティブで動かす

では、どう設計すべきか。問うべきは、どこに、いくら、どんな成果に対して払うかである。

たとえば救急と身体合併症だ。ODや自傷の患者を最初に受け入れるのは身体科の救急だが、精神疾患と身体疾患の両方を診られる体制は乏しく、その負担は現場の善意で支えられてきた。拙著や先述の滝山病院の解説で指摘してきたとおりである。令和8年度改定でようやく精神科慢性身体合併症管理加算が新設されたが、これも精神病床の入院患者向けであり、救急の受け入れ体制が十分になったわけではない。

善意に頼る制度は、善意を摩耗させる。摩耗した善意は陰性感情に変わり、その矛先は制度ではなく、目の前の弱い患者に向かう。救急と身体合併症には、適切な受け入れと治療、精神科への連携までが経営上も合理的になるよう、報酬を設計すべきだ。件数だけに払えば、今度は不必要な入院が合理的になる。何に払うかを誤らなければ、受け入れは善意に頼らずとも自然に起きる。

患者側も同じだ。以前から述べてきたように、窓口負担による需要の調整は、利用そのものを制限するよりも患者の選択の自由を残せる、簡便で合理的な方法である。患者に遠慮を求めるのではなく、適切な受診が自然と合理的な選択になる自己負担を設計すればよい。救急車の有料化や選定療養費もその延長線上にあるが、必要な受診まで抑えない設計が前提であり、詳細は別稿に譲る。

限られた医療費は真に医療を必要とする人のために
日本維新の会が高齢者の医療費窓口負担を原則3割に引き上げる提言案をまとめた。これについて現場の現役医師の視点から考えてみたい。まず私の見解を明確にしておくと、原則3割引き上げには賛成である。医療費増大が止まらない中で、不要な医療の削減は喫緊...

医師の善意を前提にし続けるのか

冒頭のポストの8000超の「いいね」の理由は様々だろう。だが、患者を揶揄する投稿がこれだけの反応を集めること自体、問題の構造が社会に十分認識されていないことを示唆している。構造が見えないから、怒りは患者個人に向かうのだ。

先日、大学病院の夜間受診をめぐる騒動でも書いたが、現場が大変であることは、患者に遠慮を求める理由にはならない。声を上げるべき相手は、患者ではなく制度である。

患者に忖度を強いる医療なら、一度壊れたほうがいい
記事のポイント 患者への批判は筋違い:新藤加菜区議は事前に病院へ相談し、医師の判断に従って受診した。医療資源の配分まで患者に責任を負わせるべきではない。 かかりつけ医は患者のための制度:患者が自由に選ぶものであり、大学病院をかかりつけとする...

医師は倫理的であるべきだ。しかし、医師が倫理的であることを前提に制度を作ってはならない。

この二つは矛盾しない。

医師の倫理観すら当てにできないのに、医師の善意を前提に制度を作り続けてよいのか。

医師にも患者にも高い倫理観を期待しなくても、適切に機能する制度。それこそが、いま必要とされている新たな制度設計である。


編集部より:この記事は精神科医である東徹氏のnote 2026年10月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は東徹氏のnoteをご覧ください。

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント