【豊臣兄弟!最終回】豊臣秀長を殺したのは「家康と秀次の陰謀」という展開か

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、小田原攻略と天下統一、その直後の秀長の死で最終回となるらしい。そして秀長の死は、もしかすると徳川家康か豊臣秀次、あるいはその両者の共謀の結果ということにするのかもしれない。

最終回で豊臣兄弟はどうなる?

そのあたりを、『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)の内容も含めて、真相を推理する。

秀長の死に家康と秀次はどう関わるのか

秀長についてはすでに、家康が最初の上洛時に、豊臣家の大黒柱である秀長の暗殺を北条氏の仕業と見せかけて謀ったとした。今後の展開で、家康夫人となった旭と秀長の相次ぐ死を、家康によるものといった形にするかもしれない。

一方、これは大胆だが面白い設定で、凡庸な秀次が秀長を煙たがっていると描いている。豊臣兄弟の姉で、秀次の母である「とも」が、「あんた…小一郎のことが嫌いなの?」と問うと、秀長が「違いますよ。向こうが私をお嫌いなのです」と返していた。「とも」もそんなことはいけないとは言わず、秀次が関白になって大政所になることもまんざらでもなさそうだ。

於次丸秀勝と鶴松の死で秀次が急浮上

秀吉の想定継承者は、天正5年(1577年)かその翌年に、養子にもらい受けた於次丸秀勝だった。いわばサラリーマン重役でありながら、織田信長の子や孫を押しのけて秀吉が天下人になれたのには、いずれは信長の子である秀勝に大政奉還するのだからという歯止めがかかっていたことが大きい。

秀勝は天正13年(1585年)7月、従三位・左近衛権少将に、さらに正三位・権中納言にまでなったが、12月10日、丹波亀山城で病死した。18歳だった。すでに毛利輝元の養女と結婚していたが、毛利家に戻された。

そのあと、しばらくは想定後継者がいない状態になって、急な場合は秀長も候補だっただろうし、甥の秀次や寧々の甥であるのちの小早川秀秋、もしかすると豪姫の婿の宇喜多秀家などもあり得たかもしれない。また、後陽成天皇の弟である八条宮を秀吉の猶子にしたりもしたが、混沌としていた。

しかし、天正17年(1589年)に茶々が鶴松を生んだので、これが確定的な後継者となったのだが、天正19年(1591年)に死んだ。

秀吉は髻を落とし、鶴松の遺骸を運んだ東福寺に籠もったが、鶴松は病弱だったので、心の準備はできていたらしく、甥の秀次を跡継ぎに決めた。とくに優れてもいないが、学問も修め、朝廷や公家衆、寺社との付き合いにも不安がなく、なんとかやっていけそうだった。

11月には秀次を正式に養子にして、権大納言、ついで内大臣とし、12月18日には関白になり、聚楽第も譲り、朝鮮出兵に専念し、名護屋城に移った。

京の町を聚楽第の城下町として作り直す計画も進んで、本願寺も堀川七条に置いた。秀次は、聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、左大臣になった。

この頃、毛利輝元に男子がおらず、甥の秀元を養子にして、亡き秀長の娘と縁組みさせた。ただ、輝元に実子ができたら、秀元は領地を分けて独立大名にするとあらかじめ決めていた。秀次についてもそうすべきだったが、もう子どもは無理だと秀吉が決めてかかったことが、不幸の種となった。

朝鮮では破竹の勢いで漢城まで落としていたが、秀長や旭に先立たれて気弱になっていた大政所が文禄元年(1592年)7月22日に聚楽第で死んだ(北政所は京都と大坂を行き来していた)。秀吉は急ぎ帰洛したが間に合わなかった。秀吉は大政所の供養が済んだら渡海するつもりだったのだが、年が明けると、茶々が名護屋で懐妊していることがわかった。

秀吉は茶々を大坂へ返し、文禄2年(1593年)8月3日には男子が誕生した。お拾君、のちの秀頼である。秀吉は喜んで名護屋から戻った。ここで、秀次はお拾が生まれた以上は、自分から、お拾君を養子にして、成人の折には関白を譲るというべきだった。しかし、秀吉も将来どうしろとか、すぐには言わなかった。そして、秀吉も年の暮れになってなお、将来については決めなかった。また、しばらくして、お拾君と秀次の姫を結婚させようという提案をされても、秀次はすぐには承諾しなかった。

だが、秀吉にもしものことがあれば、お拾は秀次にとって邪魔者になるから、茶々がひどく疑心暗鬼になって、秀吉が死んだあとに、自分とお拾はどうなるかと秀吉に強く言ったのは当然である。鶴松のときは「寧々の子」という建前が取られたが、その結果、茶々は母親として十分なことができなかったと悔やんだせいか、秀吉は「お拾は茶々の子でいい」と言い、自分で育児するのを認めたくらいなので、茶々の発言力が強くなった。

秀次の獅子身中の虫は若手側近グループ

この年に、秀吉は伏見で城普請を始めた。名護屋にもう行く気がなくなり、御所に近いところに住まいが欲しくなった。秀吉は、前田利家、蒲生氏郷、徳川家康、宇喜多秀家、佐竹義宣、上杉景勝などの屋敷を訪問し、秀次の評判などを探った。御所で能を上演するなど、朝廷との交流にも気を遣ったりした。

一方、秀次との関係を修復しようと、一緒に吉野で花見をした。明治以前に建てられた木造建築として東大寺大仏殿に次ぐ金峯山寺の金堂は、このときに建てられたものだ。そのあと、高野山へ回って、亡き母のために創建した青厳寺にも参詣した。

『武功夜話』は、成立の経緯が不明だが、旧家の伝承を後年になってまとめたものと割り切ればいいと思う。秀次家老の縁者から出た文書にもかかわらず、事件の原因を、秀次側がいずれ秀頼に大政奉還せざるを得ないと割り切らずに欲を出したとしているのは興味をそそるし、非常に納得できる推測でもある。

若い側近たちが秀次に、秀吉の死も近いだろうから、焦って秀頼に天下を渡す約束をするなと勧めたことはあり得る話だからだ。伊達政宗、最上義光、細川忠興、浅野幸長など、秀次派とみられる武将群も形成されつつあった。

しかも、旭、秀長に続き大政所が亡くなると、秀次の姉一家と秀吉や寧々が疎遠になったということもある。寧々は優秀な「女将さん」だったが、その背景には大政所の支持があった。その大政所がいなくなったので、寧々の役割も空洞化したのだ。

秀吉はお拾の庇護者として前田利家と家康を当てにして、行き来を頻繁にした。利家が秀次より織田家の血を引くお拾を好むのは当然である。家康も江戸に帰国するとき、京に残る秀忠に、秀吉と秀次が衝突したら、秀吉側に立てと言い残した。

両者の対立の噂が広まると、秀吉のところにさまざまな密告が来た。直接の引き金は、朝鮮遠征費用の捻出に困った毛利輝元が秀次に借金をしたところ、忠誠を求める書き付けを要求されたので、不安になって秀吉に提出したことにあった。

石田三成と増田長盛が秀次に詰問したところ、慌てた秀次は朝廷に銀5000疋を献上して助けを求めたが、逆効果だった。秀吉は寧々の秘書である孝蔵主を聚楽第へ派遣して、言葉巧みに、単身で伏見に来るよう勧め、秀次が伏見に着くと、高野山へ出発を命じた。

秀次事件の結末と八幡山城破却の真相

そして、朝廷に秀次の追放を奏上し、福島正則を高野山に派遣したところ、秀次は自刃した。秀吉は切腹を命じていないのに、秀次が勝手に腹を切ったという有力な説もある。

また、秀次を排除したのが石田三成ら旧浅井家臣の近江人たちだというのもおかしい。三成と茶々の関係はそれほどよくなかったし、関ヶ原の戦いのときに茶々は軍資金の拠出も秀頼を戦場に連れて行くのも拒否し、毛利輝元まで大坂城から出さなかった。茶々からすれば、石田三成らは本来は浅井の家臣と見下し、それが三成らにとっては不愉快だったのではないか。

三成らは長浜城で寧々のもとで仕官し、かわいがられたし、上記の孝蔵主も近江人で、寧々の周囲こそ近江派なのである。加藤清正とか福島正則は大政所の親戚であって、寧々との関係がそれほど深いわけでもなかった。

秀次の妻妾や子どもたちは三条河原に引き出されて刑死させられた。正室の父親である菊亭大納言(秀次の正室は池田恒興の娘だったが、のちにこちらも正室扱いされており、両者の関係はよくわからない)や、駒姫を側室に出していた最上義光など妻妾の父たちは、助命を訴えたが、願いは届かなかった。

なお、秀次は前回も書いたように、近江八幡を居城にしていたが、天下統一後は改易された織田信雄のあとの清須城主となって、父母が秀次の代わりに治めていた。

したがって、秀次が失脚したときに、その思い出を消すために八幡山城が破却されたというのはおかしい。秀次のあとの城主だった京極高次が大津城に移ったので不要になっただけだ。


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