【戦国時代の天皇②】戦国の争乱で困窮した皇室を信長が救った

『誤解だらけの皇位継承の真実』(清談社)と『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)を踏まえ、室町時代から江戸初期までの歴代天皇の視点から見た戦国史について、昨日の「戦国時代の天皇①北朝のなかでも2つの皇統が対立した」に続いて、本日は後花園天皇から正親町天皇までを解説する。

【戦国時代の天皇①】北朝のなかでも2つの皇統が対立した
『誤解だらけの皇位継承の真実』(清談社)と『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)という2冊の本を書いて、歴代天皇の視点から見た戦国史というものを理解する必要があると思った。近世の公武の関係の成立という観点から...

後花園天皇と南朝残党の抵抗

北朝の系統でも後光厳天皇の系統が断絶して、伏見宮家となっていた崇光天皇の子孫から後花園天皇が帝位を継いだ。

後花園天皇の御代は36年にも及んだ。最初の5年は後小松法皇の院政が行われたが、約30年の親政が行われ、譲位後も6年間の院政を行った。このころ、将軍義教が嘉吉の乱で殺され、義勝はすぐに病死し、義政が就任したのは6年後だった。

この間隙を狙ったのが南朝の残党で、土御門内裏を襲い火をかけた上、神璽と宝剣を奪い去った(「禁闕の変」)。首謀者は後亀山帝の弟聖護院宮の孫である金蔵主で、比叡山延暦寺に逃げ込んだが、山徒たちに殺害された。

この変への関与を疑われて南朝にとって正統的な皇位要求者だった勧修寺宮教尊も隠岐へ流罪にされた。宝剣はすぐ取り戻されたが、神璽が取り戻されたのは15年ものちのことだった。

南朝の子孫と称する尊秀王は自天親王(北山宮)と称し、上北山村小橡の龍泉寺を行宮としていた。ここへ赤松一党が味方をするとして近づき、自天親王を殺め、神璽を奪い取った。いったんは、南朝に忠実な川上郷民に奪還されたが、翌年、再び取り戻して後花園帝の手に戻した。

しかし、将軍の権威が落ちた中で、後花園天皇は義教を殺した赤松満祐への追討軍に自ら文案を練って綸旨を発給されたり、「寛正の大飢饉」のさなかにも、将軍義政が庭造りに没頭し、なんら有効な対策を出そうとしなかったので、「満城の紅緑誰のためにか肥ゆる」などとした詩を義政に与えて叱責されたりした。

応仁の乱が始まり、即位礼や大喪もままならず

天皇が皇子である後土御門天皇に譲位されたのは、応仁の乱があと3年後に迫ったときだった。後土御門帝の践祚に伴う大嘗会が終わることを待っていたかのように、いまの同志社大学の北側にある上御霊神社で東西両軍の戦端が開かれた。

後花園上皇や後土御門帝は御所を抜け出して室町亭に難を避け、上皇は出家した。そして、この戦火で京都の町はほとんど焼き尽くされたので、それ以前の建築は現在の京都の町にまったくといってよいほど残っていない。

後土御門帝の御代は、この騒乱の開始から37年後の1500年まで続く。戦乱の終息を願われ、あるいは、出家される希望もたびたび出されたが、新しい天皇の即位には多額の費用がかかることもあってかなわず、崩御するまで帝位にあった。

南朝の残党では、応仁の乱のさなかに南朝の遺臣が小倉宮の末と称する皇子を擁して紀伊で兵を挙げ、西軍が京都に迎えた。だが、やがて、西軍から見放され各国を流浪したあげく1479年に高野山にいたのを最後に消息を絶ち、南朝は現実の世界から消えた。

また、派手な結婚をするお金がなく、名門同士の閨閥を求めての婚姻もあまり流行らなくなった。後土御門天皇の母は、藤原孝長という下級貴族の娘で、和気郷成の猶子から、藤原保家の猶子になり、さらに大炊御門信宗の猶子として入内し、後土御門天皇を生んだ。

結局、後花園天皇に正室らしきものはなく、この女性が准三后扱いされただけだった。後土御門天皇についても、後柏原天皇の母となって准三后とされた庭田朝子は、その母すら不明だ。

後土御門帝が崩御し、その皇子である後柏原天皇が即位されたものの、皇室と幕府の困窮は極まっており、先帝の葬儀すら行えず、遺骨は49日もそのままにされたのち葬礼が行われる有様だった。

即位礼についても、奇人管領だった細川政元(竜安寺の石庭は彼がつくったともいわれている)は「即位礼を挙行したところで、実体のないものは王とは思わないし、そんなものしなくとも自分は国王であると認めているし、末代には不相応なものだ」とにべもなかった。

元日節会など諸行事のほとんども行われなくなった。ようやく即位礼が挙行されたのは、践祚から21年後。費用は幕府が何とか調達したほか、本願寺実如の拠出によった。実如は蓮如の後継者だが、朝廷との関係も良好で、この寄付をすることにより准門跡に補された。

後柏原帝の崩御により、次男である後奈良天皇が即位することとなったが、践祚の儀式を行う費用にも事欠き、剣璽渡御を省略するなどした。しかし、葬礼は泉湧寺などの努力で翌月に無事行えたことがせめての慰めだった。

幕府の権威失墜と皇室の困窮

このころになると、幕府は正常に機能しなくなり、将軍が近江の朽木とか桑実寺に逃げて、改元があったことも知らなかったといったことまであった。御所の簾に紙と銅銭をくくりつけておけば天皇の宸翰(しんかん)がいただけたというのもこの天皇の御代だ。

天皇はこうした嘆かわしい政情を嘆き、祈祷をさせ、また、般若心経を盛んに写経した。その奥書に「朕民の父母となりて、徳覆うことかなわず。甚だ自らを痛む」と書かれたことはよく知られている。また、諸国に勅使を派遣して宸筆の心経を納められるなどした。さらに、官位の乱発を控えて権威の回復を試みられ、やがて、信長や秀吉が天下統一を図り国家秩序を再建しようとするときに皇室を頼むこととなる伏線となった。

後奈良帝が崩御されたとき、すぐに子の正親町天皇が践祚したが、例によって葬儀のための費用もままならなかった。

正親町天皇 Wikipediaより

正親町天皇は織田信長の保護者として戦国を終わらせる

「本能寺の変」の黒幕をだとする人がいる。その理由というのが、誠仁親王への譲位を画策したからだとか、前年に「馬揃え」という大軍事パレードを挙行して圧力をかけたからだというのだが、まったくの誤解だ。

中世の天皇はいずれも早めに譲位して上皇や法皇になりたがった。いまでも宮中行事は窮屈で体力も消耗する。自由な外出もままならない。そこで、上皇になって大事なことについての実権だけ持ち続けるというのが好ましかった。

だが、即位儀礼には費用がかかるし、院の御所も出来合いのものがなければ建設費用が必要だし、上皇としての生活費をどう工面するかも悩ましかった。そこで、正親町天皇は、そうしたことの面倒も含めて信長になんとかしてくれるように要望していた。

織田信長像 愛知県西加茂郡挙母町長興寺蔵 Wikipediaより

また、馬揃えは武将たちが天皇のために行った閲兵式で、武将たちが皇室を守る覚悟のほどを示すデモンストレーションなのだから、悪い気持ちのはずがなく、京都の市民は、「弥勒の世が来た」「こんな時代に生まれて幸福だ」と歓喜し、天皇もアンコールを数日後にするように所望されたほどだ。

正親町帝が践祚したとき、京都は三好長慶の支配にあった。将軍義輝は朽木谷にあったが、その年の春に弘治から永禄に改元されていたことが将軍には伝達されず、3カ月も弘治を使い続けるという不祥事を起こした。

しかし、六角義賢の調停で義輝は都に復帰し、しばらくは、京都は首都らしい賑わいを発揮した。正親町天皇はこの小康状態を利用して、毛利元就の献金で即位礼をあげることができた。

三好長慶が死んだのを機に、足利義輝が政権を実質的に掌握しようとしたところ、松永久秀や三好三人衆に襲撃され殺されたが、この混乱をおさめたのが、正親町帝の綸旨に基づき、義輝の弟である義昭を擁した信長の上洛だった。

織田家では信長の父である信秀が、御所の修理費用を献金するなど尊皇の姿勢を示していたが、信長自身は、はじめは足利幕府を実質的に支配することで天下を治めようという姿勢だった。

ところが、足利義昭を倒した後は、平清盛をモデルに直接、朝廷で官職を得る路線に切り替え、あっという間に右大臣まで昇進した。

そののち、いったん右大臣を辞するのだが、天下統一が目前に迫る中で、さまざまな動きが出ていた。正親町天皇からは、関白、太政大臣、将軍のどれかになってほしいという意向が伝えられていたが、それに対する回答をする直前に本能寺の変が起きて信長の意向は謎のままになった。

私自身は、信長はまず息子の信忠を将軍にして、自分はいったん太政大臣になり、天皇には譲位してもらい、そのうえで、上皇と新天皇に安土に行幸してもらうようなことだったと考えているが、あくまでも推察でしかない。

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