安土城は織田家発祥の地に建てられた
史上最大の天守閣は4代将軍家綱のとき、「振袖大火」で消失した江戸城のもので、家光時代に再建されたものだ。大きさは現在の大阪城のものよりひと回り大きく、デザインは松本城のものを豪華絢爛にした感じだ。
この火事のあと再建が計画されたのだが、将軍の叔父である保科正之は再建に断固反対して、「天守は近代、織田右府(信長)以来の事にて、ただ遠くを観望いたすまでの事なり」と言ったと記録にある。
天守閣のルーツともいうべき建築はいろいろ指摘できるし、天守(天主、殿主)といった呼び方をされた例も安土城に先立ってある。だが、どんなものだったかも分からない。ただ、松永久秀の居城で奈良の町を見下ろすような場所に築かれた多聞城には4層の櫓があったようで、このあたりになると安土城の先駆的試みといってよさそうだ。
といっても、安土城のものは規模も豪華さもまったく桁が違うもので、だからこそ、保科正之のような最高権力に近いところにある人物も、信長の発明という認識を持っていた。
この安土城と近江八幡の町を『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)の内容も含めて紹介する。
安土城の大手門から天守閣の足元までは、ほぼまっすぐに伸びた階段が続いていたことが近年の発掘で分かっており、防御という以上に勢威を見せるためのランドマークだったことが分かる。
ローマのサン・ピエトロ寺院は安土城とほぼ同じ時代のものだが、ティベレ河畔のサンタンジェロ城のあたりから続く上り坂の上に偉容を示しているのと共通性があり、その意味でも信長はまことにルネサンス人らしい感覚の持ち主だった。
また、この城を信長は多くの来訪者に案内して見物させたし、一般民衆にも開放して自ら入場料を集めた。この天守閣を復元したいという希望は昔からあり、西武の創始者だった堤康次郎は地元出身だけに熱心で、周辺の土地買収まで行ったが、図面や屏風画などがないので当時の文部省が認めず、その後も文化庁が認めない。
それでも文献資料と残された天守台の石垣をもとにしたさまざまな復元案がある。有名なのは内藤昌氏によるもので、セビリア万博に出展された部分復元模型や地元の安土の「城郭資料館」も内藤氏の案による。

安土城天主復元模型120スケール(内藤昌監修/安土城郭資料館)
一方、宇喜多秀家が建てた岡山城天守閣(戦災で焼失して戦後復元)には、安土城を模したという言い伝えがある。安土城の天守台が不等辺八角形なら岡山城は不等辺五角形。初期の天守閣は、土木技術が未発達だったので、人工的な長方形の平面でなく、しっかりした地盤を選んだのでこういうことにもなった。
岡山城は烏城といわれるように真っ黒だが、安土城も同じだった。ただし、もっとけばけばしい原色も使われた色彩感覚だった。
安土という場所にどうして信長が城を築いたかだが、ここからすぐ近くに、織田家の先祖だとされる平資盛の子が幼少期を過ごしたといわれる津田荘がある。
それが動機だという証拠はないが、創業の地に本社を移したとしたら、交通の便といったほかの理由もあるかもしれないが、先祖帰りが主たる理由だと見るのが普通だ。安土に築城した理由としてこの一致が注目されないのはおかしい。
足利義昭を追放して平清盛の子孫として天下に号令しようとした信長の政権構想の一環として選ばれたのだろう。

戦国時代の安土城周辺
観音寺城と近江八幡の歴史
ただし、近江八幡市内にはほかにも、観音寺城、岡山城、八幡山城があって、いずれも歴史上重要だ。
応仁の乱のあと、足利将軍は京都にある細川家と近江の六角家の間を行ったり来たりした。12代義晴など、近江八幡の岡山城で生まれ、観音寺城と同じ繖山上にある桑実寺に滞在し、近衛尚通の娘と祝言をここで挙げた。義輝と義昭の母である。
近江守護・六角氏は土豪たちとともに、標高433メートルの繖山に築城し、家来にも山上に屋敷を構えさせた。いずれも石垣を多用したもので、安土城の先駆だった。信長はなんとか六角承禎を味方にしようと1週間も滞在したが説得に失敗したので、大軍を率いて攻め、承禎は故事に倣って城を逃げ出し甲賀に雌伏したが、戻る機会はなかった。
大手口に当たる石寺という集落から石段を登り観音正寺へ向かい、さらに上ると本丸跡である(寺までは有料道路もある)。山上のあちこちに見事な石垣が点在する様は壮観である。そこから桑実寺へ向かい、安土城方面に下りるハイキングコースは城マニアにおすすめである。
麓の石寺の商業機能はそれほどでもなく、少し離れた老蘇神社のあたりの中山道沿いに石寺新市がその機能を果たしていた。これが本格的な城下町のようになるのは、安土城の出現を待たなくてはならない。
また、観音寺山の麓には教林坊という小さな寺院があり、全国でも有数の見事な紅葉が見られる。

伝統的建造物が残る近江八幡市 Wikipediaより
豊臣秀次の八幡山城と近江商人の町
安土城は天守閣や本丸は失われたが、全焼したわけではなく、修築を施して三法師が居城し、賤ヶ岳の戦いの翌年には三法師のもとに諸大名が正月参賀にやってきた。ただ、羽柴秀吉と織田信雄が対立すると、三法師は丹羽長秀の居城である坂本城へ移された。
そして、1585年(天正13年)の紀州攻め、四国征伐で副将格として戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は、8月23日の論功行賞で近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)を与えられると、安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。
豊臣秀吉は八幡山城を安土城に代わる近江国の国城として、自ら普請の指揮をとり、山頂の城郭と麓にある居館、そして安土城から移築した城下町の造営に力を注いだ。
しかし、八幡山は安土山と違い険しい山で、山の斜面を十分に活用できず、麓の居館が城の中心となった(ここから多数の桐紋の金箔瓦が出土している。金箔瓦には安土城、大坂城とよく似た形状の巴紋瓦もある)。
安土を捨てた理由は、愛知川の付け替えなどで、安土付近の内湖に砂が堆積して港とし
豊臣秀吉の八幡山築城の狙いは、豊臣秀次の宿老に田中吉政を配し、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにあった。
豊臣秀次は18歳で入城したが、1590年(天正18年)に尾張国清須城へ移封。代わって京極高次が2万8千石で入城したが、1595年(文禄4年)に大津城に移ったので、築城から10年で八幡山城は廃城となった。
秀次の記憶を消すためともいうが、当時の記録にそんなものはなく、それなら清須城こそ破却するべきだがしていないので、おかしく、都市伝説だと思う。廃材は大津城や佐和山城、伏見城などに使われたのではないか。
現在、本丸跡には秀次の母で豊臣秀吉の姉の日秀尼(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が1963年(昭和38年)に移転されている。
麓には内堀として八幡堀が残り、美しい水郷風景になっている。また、城下町は商業都市として残り、西川ふとん店など多くの近江商人を生み出し、見事な商家が並んでいる。
また、明治になると、大丸の心斎橋・京都・神戸などの店や、山の上ホテル、東洋英和学院、関西学院などの建築設計でも知られる伝道者ウィリアム・メレル・ヴォーリズが製薬メーカー近江兄弟社を設立して本拠とし、市内にも多くの建築を残している。
紅葉と水郷観光、近江牛と人気のスイーツ
琵琶湖畔の長命寺は西国三十三番札所。船での水郷や西の湖観光も人気で、船上ですき焼きというのも可能だ。
近江牛の本場でもあり、まるたけ近江西川、近江かね安、毛利志満、千成邸、久ぼ多屋、寛閑観といったすき焼きやステーキの名店もある。
また、和菓子屋として三越本店などでも人気の「たねや」の本拠であり、洋菓子部門のクラブ・ハリエのフラッグシップショップ「ラ・コリーナ」は観光名所になっている。
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