日教組への御願い ー 日本を「日の丸」「君が代」を敬える国にしませんか? - 北村隆司

北村 隆司

「ある都立高校長の反乱」への多数の反応を読んで、色々考えさせられました。幸い、相手を罵り合う論議は少数でしたが、日教組の方針を丸のみした論議と「自分勝手」を自由と混同した論議が多かった事は衝撃でした。

先ず驚いたのは、日教組が与えた影響は「日の丸」「君が代」反対論のみならず、「自分勝手」論を広げた点でも弊害が大きい事です。


侵略と差別の象徴である「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱の強制は、「思想・良心の自由を妨げる」と言いながら、スターリン、毛沢東、金日成等の独裁思想を支持するなど日教組の「自由勝手」主議そのものです。日教組の象徴的指導者である槙枝元文氏に至っては「北朝鮮は、搾取者がいないから、みんながよく働き、生活の不安は全くない。泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない。強い軍隊を率いることは国の自主性を堅持するうえで欠かせない」と北朝鮮の軍国主義を賞賛して憚りません。

この様な指導者を持つ教員が「全体の奉仕者として日本国憲法を遵守し、法令及び上司の職務命令に従い職務遂行に当たる事を誓います」と言う宣誓書に署名しながら、職場の公式行事の場で職務命令に背いて平然としているのは当然かもしれません。

私は、国旗の掲揚、国歌の斉唱は、政治問題ではなく、国民のたしなみにの一つだと思っています。「たしなみ」はある程度の強制力を持って繰り返し教えないと身につきません。世界で愛される模範的な人間に成長する為には「たしなみ」は必需品です。子供にとっては一生一度の卒業式や入学式で、国旗掲揚や国家斉唱に反抗する先生方はたしなみの無い、卑しい人間としか思えません。

「国歌斉唱なんて人生で幾つもある退屈な儀式のひとつ。上司の説教や親戚の集まりの時のように時間が過ぎるのを待ってればいいんじゃないんですかね。」と言う「ケセラ、セラ」型意見や「神道で成長を祝い、キリスト教的な結婚式をして、仏教式で死んでいく、こんな国民性、最高だと思いませんか?」と、信仰や理念を食べ物かKY文字と混同する「フュージョン混乱」型の意見もたしなみの無い人の意見と言えましょう。

然し、「自由」と「わがまま」「強制」と「選択」の関係は非常に微妙です。

「宮崎県内でワクチン接種に同意していない農家が1戸残っていることについて、国家的な危機管理のいわゆる封じ込めというものに対する危機意識が足りない」として、農水大臣が、例外は認めずに殺処分の必要性を指摘した事などはその典型的な例でしょう。

一方、「良心」と「責任」の関係も複雑です。

宗教心も薄く、憲法も好き勝手に解釈する日本には、「聖書」や「憲法」に真実を誓う習慣も有りません。公務員として宣誓した教員は、きっと「自分の良心」に誓って宣誓したに違いありません。ましてや、「宣誓しないと教師になれないから」と言う理由で宣誓したとしたら、それこそ「思想と良心の自由」を冒涜した「嘘つき」に過ぎません。

自由の代償が如何に大きいかは、米国建国の父の一人であるパトリック・ヘンリーの「自由を与えよ、さらば死を」とか、福沢諭吉の「独立の気力のない者は必ず人に依頼する云々」と言う「独立自尊」の一節にも示されています。

自由を勝手とはきちがえる現象は、永い平和と繁栄が齎した「文化の頽廃」なのでしょうか?「頽廃」を広辞苑で牽きますと「文化が衰え、すたること。文化の気風が崩れること。」を意味し、頽廃は退廃とも書き「その不健全な気風」との説明もありました。

ひょっとして、「エコノミックアニマル」と言われながら頑張り続けた私共の世代が、憲法にある「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と言う規定の「文化的」と言う部分を忘れ、「最低限度の生活を営む権利」に集中しすぎた結果だとすれば、責任は重大です。

それにしても「ゆとり教育」がなくなったのは残念です。これは、「出来る以上に立派な人間を育てる」為の教養を涵養する意味で使った「ゆとり」が、教師にも生徒にも「楽」な教育と誤解した結果でしょう。

いじめや受験競争の激化を見るたびに,教科一辺道の教育を見直し、教養とたしなみを涵養する全人教育の重要さを痛感します。私事を持ち出して恐縮ですが、私が子供を預けた英国の全寮制パブリックスクールでは、いたいけな子供を「レデイーズ、ジェントルメン」として大人扱い(身の回りの事は全て子供自身にやらせると言う意味)する一方、厳しい躾教育や徹夜の山越え行軍などを通じて全人教育を施す厳しさにに強い印象をうけました。

日本の教育の失敗の3悪として、日教組、文科省、父兄会を上げる人が圧倒的です。主役3役が悪者では子供達もたまりません。犯人探しも意味がありません。此処で、日本人なら誰でも「なるほど」と思える「たしなみ」教科書として相田みつを師の「一生感動、一生青春」と言う易しくて深い書物を提案したいと思います。

仏教徒である同氏の著書が「政教分離」を規定した憲法に反さないのであれば、幼稚園から大学までの「倫理」教科書として父兄を含めて読み合わせ、共に学べる珍しい書物です。たしなみや礼儀は年齢や知識を超越し、老若男女が一緒に理解できる科目です。相田師の教えを謙虚に受け止めれば、「日の丸」「君が代」問題で角突きあわせずに対話が進み、意地悪で可愛げの少ない都会の親子も、地方に多い純真で感激を呼ぶ親子に変身する気がします。

パスポート無しで海外に出る事は出来ない以上、世界がグローバル化すればするほど、母国が必要になります。欧州、中東、アジアから難民として米国に来た私の友人達は異口同音に「無籍国時代」の苦難と「米国籍を得た」時の感動を語ります。日本国民が、政治的見解を離れて、母国とその象徴を、実の母の様に敬愛できる日が近い事を祈らずには居られません。

                 ニューヨークにて  北村隆司

コメント

  1. st_uesugi より:

    日教組が病的組織であることは、私は認識しています。
    ものすごく独善的、selfishな人の集まりです。
    もしかして、なにかによって洗脳されているかもしれません。
    こんな人たちが子供の教育を担っている現状は悲しい限りです。

  2. はんてふ より:

    私は地方都市で生活しているせいか、
    このように喧伝される「日の丸・君が代の危機」という
    実感が感じられません。
    私の街では、儀式は厳かに行われています。

    北村さんのような方が発信されて、ようやく
    そういう状況もある、と知ったぐらいですから。

    インターネットとは自発的な学びを強いるメディアです。
    それどころか、ケインズ、ハイエク、ドラッカー、孫正義、
    資本主義の申し子たちの覆ざる前提は
    「消費者の選択肢は増えれば増えるほど良い」。

    しかし私は「日の丸・君が代」以外に、「国のたしなみ」を
    選択しようとは思いません。国家こそは選べるものでもなく
    選ばれるものでもない。

    だがさらにしかし、国籍を変える事は不可能ではないし、
    極端に反日的な行動や言説も許されてしまう。
    日教組のかような行動や言説は寧ろ、症状であって、
    病巣は「資本主義と国家の矛盾」だから根が深い。

    そしてこういう問題にアクセスできる事自体、
    「自発的に学ぶインターネット」の恩恵であるという
    自己回帰的な「病巣」を含んでいるのですから。

  3. 未来 より:

    俺、我が日本が大好きだし、日本が世界から尊敬される国になって欲しいと人一倍思っています。
    大相撲、空手、柔道、剣道などの武術、歌舞伎や落語、京都、温泉、漫画とアニメなど日本が世界に誇る文化に誇りをもっています。
    でも、国旗や国歌に対しては特に愛着が無いんですよね。
    これって世界から見て非常識なんでしょうね。戦後教育の結果なんだと思います。
    また、日本は島国で他国と国境をせっしていないから、国旗や国歌を特に意識する必要が無かったようにも思います。
    何が言いたいかと言えば、無理に国歌や国旗を押し付けなくても、人々が自然と自国に誇りを持つ状態の方が良いのではと思います。国歌や国旗は、ある意味何らかの国家の意図の元で作られたもので、人間が生きて行く上で必ず必要な物と思えないのです。

  4. harunaakiha より:

    長いわりには、「国旗・国家はたしなみである」 としかいってないように読めますが。 なんですか、たしなみって。 たしなみはある程度強制しなければ身につかない。 だから、たしなみは強制すべきだ、とか一体どういう論拠ですか。

  5. tad2tad より:

    北村氏は日本人的ではないですね。キリスト教者が「武士道」なんてのを書いてしまうのと似た感じで、どうも議論にリアリティを感じません。日本人は北村氏が想像する以上にもっと日本的だと思います。

    > 「たしなみ」はある程度の強制力を持って繰り返し教えないと身につきません。

    お言葉ながら「たしなみ」というのはまた極めて自分勝手な言葉です。なぜなら「たしなみ」の内容が人によって非常に異なる上に、議論して調整することが困難だからです。

    北村氏の議論に説得力がないのは「私こそが常識人でありスタンダードである⇒従って『たしなみ』を定義可能である」という表明以上の何かを汲み取ることが困難だからです。

    むろん教育者は子供に教育を強制します。それが教育だからです。しかし政府は、思想に関する場合、上段から教育内容を強制することができません。そのように憲法で既定していますし、していなかったとしても反発するだけの十分な土壌があるからです。

    北村氏の話を聞いていると、あたかも修身を復活可能とでも考えているかのようです。しかしそこまで「自分勝手」な方ではないとも思います。従って理性的に考えるなら、北村氏の願望をかなえるにはご自身で好みの教育を広めていただく他ありません。実際のところそこまで明白に教育に不満をお持ちならば、ご自身で学校をされるのがよいと思います。それこそが教育のモチベーションであるし、日教組的な思想の根源なのですから。

  6. harappa5 より:

    北村さんの意見に賛成です。理由は、採用している政治政体が民主主義である以上、政府と国家と国民は一体であり、敵対的な関係になること等ありえず、国民は政府と国家の形成をする一役割を担うべきだ。議論することは、許されるべきである。しかし、我々の政府であり、我々の国家である以上は国旗、国歌を敬うべきだ。仮に、政府が、植民地政府や専制政府である場合、国民と敵対的な関係になる可能性があり、その場合は反対でも許されるべきだ。

  7. wishborn2400 より:

    世界で愛される模範的な人間に、「たしなみ」が必要だというのは
    よくわかりません。
    ある人の自国の国旗国歌に対する具体的な行動のみを問題にして、
    その行動に至る理由を考えないで批判するというのは、あまりに
    乱暴ではないでしょうか?
    そこには、それぞれの国、それぞれの人の事情や心情を理解しようと
    いう心はありえないからです。

    「子供にとっては一生一度の卒業式や入学式で、国旗掲揚や
    国歌斉唱に反抗する先生方はたしなみの無い、卑しい人間としか
    思えません。」
    これは北村氏の言としては、あまりに稚拙なように思えます。
    客観性がまるでないということ。さらには、「たしなみ」というものが
    教育によって与えられるということであれば、卑しい人間だと思う
    ことそのものが、特定の教育の結果だということになるからです。

    自由と勝手の違いは明白ではないでしょう。
    しかし、勝手とは何かは明白です。

    それは他人のことを考えない心をいうのです。

    公共心に欠けた若年世代に対する北村氏の危機感。その切実な
    思いはこれまでの文章からも強く感じられます。
    しかし、指摘されるように強い文化的な背景がないこと、それは
    批判されている理念の薄い国民性に繋がっており、なおかつ、
    それは日本の国民性の実態なのではないかと思います。
    そうした我々にとって必要なのは、いずれ借り物にすぎない規範
    意識を弄ぶことではなく、一人一人の存在を確認し、大切にする
    ことから、公共というものを捉えなおすことではないでしょうか?

  8. pdx51 より:

    ニューヨークには昔こんな歌を作った人もいました。
    Imagine there’s no countries
    It isn’t hard to do
    Nothing to kill or die for
    And no religion too
    Imagine all the people
    Living life in peace

    You may say that I’m a dreamer
    But I’m not the only one
    I hope someday you’ll join us
    And the world will be as one

  9. ウエノリ より:

    新しい国旗と国歌を作るというのはいかがでしょうか。
    日の丸が国旗として制定されたのは明治時代だそうですが、それをずっと使い続けなければいけない理由は見当たりません。
    私は、“ポスト「戦後」時代”の、自由と平和と繁栄を象徴する新しい日本の国旗を望みます。
    国歌にしても同様で、“ポスト「戦後」時代”の日本の国歌を望みます。
    国民皆が愛し、誇りを持てる、時代と社会の変化を反映した国旗と国歌が欲しいです。
    戦後、憲法を変えた時に国旗と国歌も変えてくれていれば、昭和時代の面倒でナンセンスな争いは避けられていたよう思います。残念です。

  10. ap_09 より:

    たしなみとマナーは大体同意義だと思っています。
    基本的なマナーは理屈ではなく、快適で秩序ある社会を維持するのに必要なことだと考えます。

    日本は国旗や国家を大事にしなくともうまく回っていましたが、世界のグローバル化に伴って人の交流も盛んになり、今までのような鎖国は通用しなくなるのでしょうね。
    そのときに自分の国を意識せず大事にしなかったツケを、痛い思いをして学ぶしかないのかもしれません。

    経済と同じように、結局、今若い世代やこれから生まれてくる人が迷惑を蒙るのでしょう。
    戦後の平和と経済繁栄と自由気ままを謳歌して、逃げ切り世代、本当に迷惑ですね。

  11. wishborn2400 より:

    理屈ではないのだという定義づけには、困ったものです。
    それを振りかざす人間には何を言っても無駄だからです。

    そうした言説を行う者には2種類があり。
    一つは、本当に理屈を考えていない者。
    一つは、理屈を考えない方が有利であるから考えない者。

    そうした存在は、被支配者としては理想的ですが、
    主権者としては、無責任な存在という他ありません。

    ウエノリさんの提案は有意義なものです。
    日の丸君が代といったところで、国旗国歌としての歴史は日本の
    歴史の全体像からすれば微々たるものですし、現在の日本という国家が求めるものを体現しているわけでもありません。
    国民全体で、それを考えるということはよいことであると思います。

    しかしながら、それが日本という国家の過去との縁切りのための
    ものであるなってはなりません。それは単なる誤魔化しにすぎない
    からです。
    新しい国旗や国歌を定めても、それで歴史と断絶した新しい日本
    が生まれるわけではないのですから。
    さらに言えば、その新しい国旗国歌に対する複雑な問題や心情が
    生じた場合に、それを捨てればいいのだということであれば、
    そんな使い捨てのものに愛着や誇りは持てないのではないですか?

    日の丸や君が代には、北村氏が指摘されるように具体的な政治的
    理念は表現されていません。ですが、日の丸や君が代と共にあった
    歴史は、そこに複雑な意味合いを付与しています。
    純白の布地についた消えないシミのように。
    そのシミは我々の、この国の歩みの証です。
    愛着や誇りというものは、つかいこんだものに生まれるもんじゃない
    ですかね。

  12. ウエノリ より:

    戦後世代の人間が社会の大半を占めるようになった今、いつまでも戦争責任がどうのこうのというのはナンセンスだと感じます。池田先生のblog(旧館)「忘れるという合意」が参考になります。http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/c773878b2244161a9ad85ddb3f929915

  13. greatit_777 より:

    >>私は、国旗の掲揚、国歌の斉唱は、政治問題ではなく、国民のたしなみにの一つだと思っています。「たしなみ」はある程度の強制力を持って繰り返し教えないと身につきません。

     いったい全体、このような考え方がどこから出てくるのでしょうか?欧米の先進国では、強制力をもって繰り返し国歌斉唱をさせているとは思えないです。その証拠に前に書いたように、先進国の多くは卒業式で国家斉唱をしていません。
     それよりも、国歌、国旗を強制したがる人たちの良心、人としての品格を疑います。「たしなみ」以前の問題です。国歌を歌わせるのが自分の仕事であると天皇陛下に話をした将棋名人の東京都の教育委員がいましたが、それに対して天皇陛下は強制はいかがなものかと疑問を呈されました。人間としての品格の差があまりにもはっきりした出来事として印象に残っています。
     なお、私は日教組を支持しているわけではありませんし、日の丸、君が代はどちらかというと好きです(複雑な思いは持っていますが)。

  14. wishborn2400 より:

    政治的な処世術としてなら、過去のことを考えることはナンセンス
    かもしれませんが、それをいい訳にして過去を忘れようということ
    なら、都合が悪いことから逃げているだけのことです。

    戦後世代とやらが、戦前戦中世代から断絶して存在しているわけ
    でもなく、国家の政策の具体的結果が、政策決定時の世代の
    減少にともなって変化するということもありません。
    国家は継続的に存在しているのです。
    ある国際条約を締結した世代が途絶えたことで、その国際条約の
    締結の事実が消えるなどということはありません。

    池田氏の言う「大人の合意」論はあなたに都合のよいものかもしれ
    ませんが、もう少し自分で考えたほうがよいと思います。
    なぜなら、ヨーロッパの戦後処理が標準であるなどということは
    ありません、そのやり方に日本や中韓がならわなければならない
    という理由はないからです。実際のところ、そうしてくれれば日本に
    は都合がよいのですが、そうしてくれないといって相手を攻撃する
    などというのは、外交というものを考えていないのでしょう。

    自分の世代のことしか知らないよという人が考える国旗や国歌が
    どんなものなのか、ちょっと興味ありますね。

  15. akiteru2716 より:

    コメント欄の冷静さに敬服します。

    私もtad2tad氏のコメントと同様、北村氏のエントリーは非常に日本人的でない意見だと思います。日本において、信仰も理念も全く自明のものではない。「たしなみ」とやらには非常に作り物の香りがする。私は「フュージョン混乱」こそ伝統的な日本像だと思いますが。私はそんな母国を敬愛している。

    また、日教組に関する知識が乏しいようなので、指摘しておきます。
    まず、日の丸君が代問題自体が地域により非常に温度差が激しい問題であることが一つ。はんてふさんのコメントにあるように、ないところでは全くない問題。
    日教組自体の地域や加盟単組の温度差が激しく、全く存在感のない地域の方が多いくらいで保守系がいつも取り上げるような意味での巨大組織の体などなしていません。
    しかも、すでに政権与党の支持団体でもあり、槙枝元文を持ち出して反政府団体のように議論するのは半世紀遅れの議論だと思います。
    腐った木を持ち出して、全体が枯れているかのように議論しても仕方ありません。私はかつて行政側から組合活動に対抗する立場でしたが、現在ではすでに教育現場の大半は従順なものです。

    私としては北村氏や一部の保守層のよく分かるけれど、吹き上がるほど大問題とも思えず、むしろ予定調和された中のホツレであり不寛容な制圧ではなく寛容を持って隅に寄せておくようなものだと思います。それが日本的だと思いますがいかがでしょう?

  16. jajamata より:

    コメント欄の皆さんは所謂愛国心を偏愛だと断罪するタイプの、所謂リベラリストが多いようですが自由にも節度があります。私は国旗国歌を強制する事の問題と法律を強制する事の違いがあるようには思いません。

    これから国際化が進んで国籍を変えることが珍しくなくなれば、国籍を持つだけで国と社会に責任を負う事が当然とは言えなくなります。そういう状況になって仮に愛国心0の人物がいたなら反社会的だと言われても仕方の無いことだと思います。そういう時代が日本にも来るのです。

  17. srx600_2 より:

    北村さんの意見は正統なものだと思うんですけど、日教組やある世代の日本人にはまったく届かないですよね。
    どうしても陳腐な歴史論争になってしまうので、新しい方法論が必要になってくるでしょう。

    安部公房の唱えた教育府の設立。四権分立なんてどうでしょう。
    http://www2.odn.ne.jp/~cbl82640/why/why4.htm
    脳科学、言語学、動物行動学からのフィードバックを教育に反映させる。

    安倍氏曰く
     (言語機能を麻痺させ、遺伝子の命ずる衝動に身を任す瞬間
      ・・・リンチ衝動や所謂“異端審問”だ・・・ 
      この効し難い誘惑には、“言語による刈りこみ”が不可欠だ)

    科学は進歩しているが人間のコミュニュケーション技術自体は変わらない。(twitterやニコ動はあくまで形態の変化にとどまる)
    本物の理性を目覚めさせる教育が必要だと思います。

    しかし戦中戦後(直後)世代はあらゆる分野で類を見ないような天才がいましたが、現在は何か新しいものを打ち立てる程の大物はお目にかかれないので難しいでしょうね。

  18. srx600_2 より:

    wishborn2400さん
    >> 戦後世代とやらが、戦前戦中世代から断絶して存在しているわけでもなく、国家の政策の具体的結果が、政策決定時の世代の減少にともなって変化するということもありません。

    意味がわかりません。情報は毎日更新されているのに、政策だけが止まってるわけがないでしょう。
    つい最近まで世界は東西に分断され、科学の進歩とイデオロギーの先鋭化・多角化に揺り動かされてきました。
    唯一日本だけが赤化の波の防波堤としてアメリカの庇護下、経済大国としての生活を謳歌した。
    それを絶対的平和だと勘違いして、政策は不変だなんて思わない方がいいですよ。

    >>理屈ではないのだという定義づけには、困ったものです。それを振りかざす人間には何を言っても無駄だからです。

    ap_09さんの言っている”マナーは理屈ではない”という意味は、「ゴミを道端に捨ててはいけない」、「あいさつは大事」といった、幼稚園児でもなければ理由を説明するまでもないルールの事でしょう。ポイ捨て禁止の看板に理由なんて書いてないですよ。
    世界一便利なインフラとパスポートを使えるだけでもありがたく思うのが普通でしょ

  19. wishborn2400 より:

    srx600_2 さん、
    私は、「国家の政策の具体的な結果」と言っています。
    それは「過去の事実」です。

  20. wishborn2400 より:

    srx600_2 さんには、私が「政策は不変」といっているように
    読めているようですが、私はどこでそのようなことを言っているのか。
    どこでも言っていないと思いますが?

    また、ゴミを道端に捨ててはいけないというのは、それによって
    具体的に悪影響があるからです。

    「国旗や国歌」の扱いによってそんなことが?ありえませんね。
    あるとすれば、それらを強制したい人のいやがらせとしてでしょう。

    挨拶云々については論外でしょう。「国旗や国歌」について
    たんなる慣習であると考えることはかまいませんが、政治的に
    利用されてきたことを失念しているか、あるいは故意に無視して
    いるのでしょう。簡単なことです「挨拶」と「国旗や国歌」は違うと
    いうことです。両者をマナーという記号に放り込んで、同様の
    扱いを求めるというのは誤魔化しの類ですね。

    それから、インフラとパスポートが使えるのは、国民としての
    負担によるもので、恩恵として与えられているものではありま
    せん。

  21. ウエノリ より:

    残念なことに、海外での日の丸のイメージは必ずしも良くないです。それは、過去の戦争の間に、日の丸がドイツの鍵十字と同様の意味合いを持って連合国側の国々やアジア諸国から見られていたからです。
    例えば、英連邦の一国となっている回教徒の多い国・マレーシアの歴史博物館では、日本軍の軍服や日章旗、日本語の教科書等が日本の侵攻と中国人虐殺の蛮行の記録として展示されてられています。親日派の多いマレーシアですが、歴史を語る時には、イギリス人がしてきたことには好意的で、日本には冷ややかです。
    もし現在のドイツの国旗が鍵十字だったとしたら顰蹙を買うだろうと思いますが、20世紀の前半に日の丸に込められたイデオロギーや精神(その是非は別のテーマとしてありますが)を世界の人々が忘れることは無いのです。
    なんとも、私たちの世代にはそぐわないお話なのですが。

  22. akiteru2716 より:

    >16
    日の丸に反対するのもまた愛国心でしょう?
    日本を愛するゆえの議論であることは共通の前提にするべきです。愛国vs反日という構図は「われこそは愛国者」論争にしかなりません。

    >17 >18
    数ある教育論がありますが、やはり理念的なものですね。
    4権分立も既存権力からの独立という感が強く、むしろ旧教育基本法の考え方に近いと思います。
    天才・・・・天才と乱世はセットみたいのものじゃないでしょうか?逆に言えば、いまは天才が必要なほど荒れていないのかも。あえて言えば石川遼くんなんか天才だと思います。
    srx600_2氏は以前のコメントからもニーチェのいうところの「超人」のようなものを理想としてるように見えるのですが、いかがでしょう?

    マナーとの関連は線引きが難しいところです。
    ただ、マナーはマナーに過ぎないので、俎上にあげても仕方ないです。職務命令であいさつしろとかゴミを捨てるなとかいうようになっても、反したら処分っていうのは勘弁願いたい。

    国旗国歌に対するマナーというのは理解されているのでしょう。海外でもあえて反対のために燃やしたりしてそれを害す。反対のための方法論としてはありがちですね。マナー議論は無意味です。

    もし、将来某与党が国旗国歌の改定を強行採決して違うものになったとしたら、それをする人が入れ替わるだけのことのようにも思えます。
    来年から国旗が赤くなりますといっても、同じようにたしなんでいられるでしょうか?みんなが恐れる日教組はいまや某与党の有力支持母体ですよ~。

  23. uncorrelated より:

    教育機関で式典を無くせば、君が代・日の丸の問題は考えなくていいと思います。

  24. izumihigashi より:

    たしなみ、いやごもっとも!

    たしなみって何ですか?というコメントがどこかで見られましたが、たしなみを知らないなんて・・・
    というか、たしなみは知ってるけど国旗、国歌はたしなみちゃうやろというご意見だとは思いますが、国旗、国歌に敬意を払うことは“たしなみ”なんですね。北村さんは見事に一言で表現されたんです。

    世界中で、国旗、国歌が敬愛されている中で、時々そうでない人も居ます。その人たちを捕まえて、ほら、国旗国歌への敬愛は強制されるべきものじゃないでしょ!世界標準なんて嘘でしょ、などと言い放つ人々。その人たちはたしなみが成っていない人々、はしたない人々なんですよ。

    悪い見本を見て真似する必要は無いんですよ。

  25. izumihigashi より:

    その国の政府が外交で勝ち取るもの、それは国益です。国益とはその国の利益です。国の利益とは政府にとっての利益ではなくその国民一人ひとりに分け与えられるべき利益のはずです。

    ちょっと何を書いているのか分かりにくい導入部分でしたが、国旗掲揚と国歌斉唱はたしなみである事と、国益とは切れない因果関係が存在すると思っています。

    自由経済のこの世の中、一人ひとりの利益が一致することなんか稀ですが、事、国民と一括りにした場合、国民の利益ってモノが存在すると思います。一括りになった国民という確固たる存在があるからこそ、国家が外交によって国民の利益すなわち国益を追求することが可能になるのです。

    国旗掲揚、国歌斉唱とはたしなみであるという北村氏の意見には100%賛意を表します。たしなみは継続的な半強制によって身につくものです。そうやって国民一人ひとりが国旗国歌にたいする敬愛心を身につける事が、日本国民を一つにまとめ、普段は自由経済の社会で利害対立によって鍔迫り合いをしているもの同士が、こと日本国民という枠の中では同じ国益を享受する仲間である事を自覚する強い絆で結ばれた共同体となる。

    これがたしなみとしての国旗国歌である、そんな風に思えるのです。これが装置としての機能を果たせなくなったとき、外国の反日勢力によって一つに纏まった日本国民という塊をばらばらに分断し、それぞれの勢力に取り入って、日本人の結束を弱め、日本との外交で日本に自国の国益追及をさせないように誘導することが出来るようになる。

    これは日本として望ましい事ではありません。

  26. wishborn2400 より:

    izumihigashiさん のように論理の欠落しているところの
    穴埋めに使われるので、理屈でないという「たしなみ」には
    困ったものです。ある種の人々には、埋まっていない穴が
    埋まったように思えてしまうようです。

    ある人物が、自国の国旗国歌に対して、どういう態度とっても
    具体的な影響はありません。

    延々と文章を連ねるほどの影響があるなら、全国民に強制して
    なければウソでしょう。

  27. はんてふ より:

    愛国という意識がなくても、恐らく、
    「天皇陛下・日の丸・君が代」というのは
    デフォルトで残り続けるような気がします。
    分断なんて起こりようがない。

    例えば現代日本においては、「愛国」ですら
    選択の結果なんですよ。
    それが情報化社会、資本主義国家というものです。
    無垢な大衆というのはもう有り得ない。

    サイレント・マジョリティというのは、選択/非選択から
    自由な無垢な大衆、という幻想なんです。
    つまりこのデフォルトから自由であるような
    経済人なんて存在し得ない。

    資本主義と国家、情報化社会と国家、
    この分断を恐れるのが緊急の課題なのかと思います。
    それには、「金儲け主義で愛国心を忘れた」という、
    これまた無垢な悪人の想定を捨てるべきだと思いますよ。
    例えばホリエモンにしても、心境は複雑ですから。

  28. ap_09 より:

    Wishborn2400さま並びにその他の皆様

    マナー=理屈でない、とは以下のような意味です。

    日本では食事に箸を使います。通常食事をするときは食事のための決まった時間と場所を取って、食事の席につくと「いただきます」などどいいます。茶碗の持ち方、飲食物の盛られた食器をどう配膳するか、などの決まりがあります。欧米ではナイフとフォークを使います。やはり配膳には規則があります。他にも文化によりそれぞれですが規則性のある様式があります。これらの具体的様式について、なぜそうで、どうしてそうしなければいけないかという合理的な理由はありません。

    箸をご飯に突き立てるのは、日本では仏様のもので、生きている人には最低の礼儀、タブーです。ところが、アメリカでは食べ物の上にフォークを突き立てるのは、一つのプレゼンテーションとして、レストランで食事を注文すると、出てくるお皿によく見かけます。どちらが良い、悪いの理屈はありません。しかし日本ではタブーですし、米国では気がきいているか、美的ですらあります。

  29. kisaragi より:

    今回のフュージョンとかケセラセラが納得いかないので
    宗教は道具ですよ。何から学ぶべきかでは無く、何を学んだかが重要なのは子供でも知っていることですから、宗教は学問として学ぶべき事は多いですが、理念を形作る1要素にしか過ぎません。仏教、神道、国旗、自分が納得したら取り入れる物です。それで常識と言うかたしなみが無いといわれるのは非常に違和感があります。
    国旗の話は不満なら反対意見はもちろん上げるべきですが、組織なのですから組織にのっとって活動すべきで、説得力ないなという考えしかないです。子供の為や反戦は免罪符ではないので

  30. minourat より:

    マナーといわれると思い出すのは、 東京にでてからアルバイト先で、 フォークとナイフ付きでカレーライスをだされたとき、 みようみまねで、フォークの背にご飯をのせてなんとかたべたことです。

    最近、 オバマがロシアの大統領と共に、フォークもナイフもなしで、ハンバーガーにかぶりついているのが、 広く好意的に報道されました。

    それから、「箸をご飯に突き立てるのは、日本では仏様のもので、生きている人には最低の礼儀、タブーです」というのは、死をけがれと見ており、 仏教思想に合いません。浄土真宗では、仏飯に箸は立てません。

  31. ytomoya84jp より:

    自分の生まれ育った国、そしてその国の文化を愛せない事は悲しく、哀れな事だと思います。

    台湾と韓国・中国を比較すれば明確ですが、今のアジア諸国での親日/反日は各国の教育に大きな比重がかかっていると思います。日本だって米国に民間人を東京大空襲、原爆2発などで「虐殺」されましたが、今の日本は親米であり、これも教育の結果だと思います。
    そして、ここまで日本国旗・国歌、また「愛国」を国民に軽視させたのは教育の結果なのでしょう。太平洋戦争直後は「侵略国家」としての負い目でそういう結果になってしまったかも知れませんが、60年超戦争を起こさず、憲法で戦争を放棄している「今の日本」は見えていますか?そんな「今の日本」の国旗・国歌を変える必要はありますか?

    私には国旗掲揚、国歌斉唱という、当たり前の事を強制しないといけないという事実自体が残念です。
    「日本は侵略国家」と戦後教育を受けた世代にはもう何を言っても無駄かも知れませんが、これからの世代には国家としてまともな教育を受けさせ、愛国者を育てて欲しいと思います(愛国者=侵略国家者などという低俗な事は言わないで頂きたいです。)そうすれば将来、国旗掲揚、国歌斉唱の是非などという馬鹿げた議論は起きないのではないかと思います。

  32. minourat より:

    国旗について強く印象にのこっていることがあります。
    1) 米国の黒人が、差別撤廃のためのデモ行進において、 星条旗を先頭に掲げて行進していたこと。
    2) 大二次大戦のさい、米国西部の日系人は、 強制収容所に移されましが、 多くの二世が米国兵として志願して、ヨーロッパ戦線で戦いました。 こうした息子を持つ収容所に住む老夫婦の絵をみたことがあります。 背景の室内の壁には、日の丸の旗の日の丸の下に「武運長久」と書かれたよせがきがありました。
    2)米国の黒人の公民権運動が盛んなとき、 オリンピックでメダルを獲得した二人の黒人選手が、 米国国旗が掲揚されるさい、 国旗から目をそらし下を向き、 黒い手袋をはめたこぶしを突き上げていました。

    国旗には、大きな意味があるようです。

  33. minourat より:

    ちょっとお聴きしたいしたいことがあります。
    米国最高裁の国旗・国歌に対する判決は誤っている、 日本は中国・韓国のようにすべきであるという意見が大勢でしょうか? 米国最高裁は、 教師の米国旗に対する忠誠宣誓を拒否する権利をみとめています。

  34. srx600_2 より:

    akiteru2716さん
    安部工房の唱えた4権分立と旧教育基本法はまったくの別物ですね。
    最後のの1権は反暴力装置としての教育。遺伝情報に刻まれた破壊衝動を自覚させ、理性化を促す。教育というか、人間関係における情報処理法則として理論化によるプロセスと言えます。どこかの国に従属するシステムではないというところが、従来の教育法と異なります

    人類全体の縄張り意識が充分に弱体化しコントロールできるならば、国旗の持つ意味も変わってくると思いますが、今はまだその段階じゃない。
    日の丸のイデオロギーが無くなったとしたら、その代わりに中共のイデオロギーに支配されることになる。
    そりゃ何の危機感なく生きていけるなら日の丸も必要ないかもしれないけど、最近でも韓国の哨戒艦が沈められてるし、日本にもノドンが向けられてるであろうし。
    日の丸は情報戦のファイアーウォールの一部として機能してると思うんですよ。

    ニーチェについては「超人」とまではいかなくても脳とコンピュータの進化に憧れてますね。ただ国旗が赤くなったらレジスタンスでも作りますよw

  35. はんてふ より:

    補足:「資本主義と国家、情報化社会と国家、
    この分断を恐れるのが緊急の課題なのかと思います。」

    例えばグーグルをアメリカの尖兵である、と認識しているのは
    日本のナショナリスト(一部ですが)だけではありません。
    外資に対する反発というのは、ある程度、誰しも
    感じる事なんです。

    問題なのは、そういう反応自体がグローバルに共有される。
    情報化社会や資本主義から自由な「愛国」すら有り得ない、
    それが近代の「愛国」なのだと思います。

    「天皇陛下・国旗・国家」については、
    目的と結果・・・そういうインプット/アウトプットの関係、
    つまり機能主義からは自由であるべきかと。
    あれから考えましたが、多様性=心理すらどうでもいい。

    我々近代国家の人間は、選ぶものが多すぎて、
    とても、そういうデフォルトをどう選ぶかというには
    忙しすぎるような気がするんです。
    そういう「怠惰な」意味で、象徴の分断は有り得ない。

  36. wishborn2400 より:

    ap_09 さん、国旗国歌は食事の作法の類ではありません。
    マナーという言葉で誤魔化さないで、具体的に考えることを
    お勧めします。
    国旗国歌がその歴史的経緯から政治的な意味合いをもって
    扱われている以上、食事の作法などと同一視することはできません。

    ytomoya84jpさん、国旗国歌は別に日本の文化の全体を体現して
    いるわけでもありません。国旗国歌への態度を、国家に対する
    姿勢と同一視するような短絡的な思考は慎むべきです。
    アイヌ民族の文化は、日の丸君が代になんら体現されていません。

  37. wishborn2400 より:

    srx600_2 さん、申し訳ないが私が「政策が不変」だと言っていると
    理解していたのは、誤解をされていたということでよろしいか?
    一応確認を頂きたい。

    また、繰り返しになりますが国家によるパスポート発行やインフラ
    等のサービスは、天から降ってくるかのごとき無償プレゼントとして
    国家が行っているわけではありません。
    国旗国歌への態度とは関係なく、国民の税負担や行政機関の
    運営によって行われているものです。
    国家自体が国民全体で運営しているものですので、その恩恵は
    国民が自身の手によって実現させているものです。

  38. wishborn2400 より:

    minourat さん。大勢でしょうか?と聴かれても難しいかと。
    それぞれが自分はどうですとは言えますけど。

    「中韓のように」というのが、国旗国歌の強制ということであれば
    私は全く賛同しません。しかし、中韓のようにというのは恣意的では
    ないでしょうか?国旗国歌の強制を行えば、かならず中韓のように
    なるかといえばそうでもないわけですから。
    中韓を引き合いに出すのは、国旗国歌尊重バラ色論に対する反論
    としては有効だと思いますが、先の用例では不適切な印象を受け
    ます。質問が誘導的であると思います。
    米国最高裁云々は興味深い例示ですね。

    この国の誰であろうと、自国の国旗国歌に対する自分の態度表明は
    自由であるべきと考えます。

    自国の国旗国歌を尊重しても、愛国無罪を叫んで他国の大使館を
    おそっているようでは、たしなみも何もありませんしね。

    具体的に何か不都合があるわけでもないことを許容できないようでは
    思想信条の自由なんてとても言えませんしね。

    以上、大勢じゃなさそうな人でしたー。

  39. srx600_2 より:

    wishborn2400さん
    あなたはどうしても言葉を額面どおり受け取るきらいがあるのではっきりいいますが、憲法9条の改正には賛成ですか?
    2次大戦の事実があるから、永遠に変えたくないという団体がいますよね。

    あなたがもし北朝鮮に生まれていたら、こういう議論も海外に出国することも不可能でしょう。
    中国の農村に生まれたら沿岸都市の戸籍を取ることも難しい。
    多少の金さえ払えば何も不自由なく暮らせる、安全・水・インターネットがこれほど高水準で備わった国は先進国の一握りですよ。
    だから密入国者が絶えない、カルデロンさんも日本にいたい。

    正直私はあなたと議論する価値を見出せないですね。こんなことをいちいち説明するの面倒くさいですもの、この程度の話をするなら2chで充分ですよ。

  40. srx600_2 より:

    はんてふさん
    情報化が進むと、世界規模で並列化される意識というものは確かにありますね。

    >>情報化社会や資本主義から自由な「愛国」すら有り得ない、

    資本主義や愛国心も高度に情報化され、機能としてパッケージ化される、区別はつけられないですよね。

    何を選択するかは、受動的な人間ならテレビや新聞の誘導に影響されるんだと思いますよ。
    労働に疲れた日本人ならそれがスタンダードになっても仕方ないですが。
    象徴の分断 = 情報の分断と私は考えています。

  41. akiteru2716 より:

    >32
    肯定にも否定にも国旗は意味を持って扱われていますよね。
    国旗国歌の問題は「確信的」な否定行動であって、たしなみの有無の問題じゃないと僕は思います。
    まぁ、どーでもいいひとが一番多い気がしますが(笑)

    >33
    38の指摘のように中韓を引き合いに出すのは語弊が伴いますが、自由な社会ほどマイノリティへの寛容性に敏感であるのは確かだと思います。

    >34 >39
    srx600_2さん
    中身は気に入らないかもしれませんが、教育と国家権力への従属の問題や国家への従属ではなく、国家をドライブしうる国民の育成戦後教育の主要テーマです。
     学校における職務命令の問題も、第四権力気取りが「統帥権干犯だ」と吹き上がってる構図と見ると分り易くないでしょうか?

    私は今の国民は国旗国歌をことさらに強調しなくても、簡単に赤化したり分断されて骨抜きなるほど脆弱ではないと思うのですがどうでしょう。日本人、OKと思いますよ。同胞をもう少し信用してもいいのでは?

    僕はwishborn2400さんの意見は聞くに価すると思います。
    特定の心情を排除しないという姿勢は私も大事だと思う。
    政治的連続性があるから戦後世代も断絶していないと言う意見は、私自身当事者でもないのに一体化されるのには同意できないですけどね。
     インフラに関しては一部の誰かが無償で奉仕しているものではなく、みんなで創り上げたものです。悪質な脱税をしてるとかでなければ、一部の誰かが恩着せがましく言うようなことではないと思います。

    愛国vs反日的な構図を考えてる人も多いようですが、私はここで議論してる人皆愛国的だと思いますがどうでしょう?

  42. はんてふ より:

    >資本主義や愛国心も高度に情報化され、
    機能としてパッケージ化される、区別はつけられないですよね。

    何を選択するかは、受動的な人間ならテレビや新聞の
    誘導に影響されるんだと思いますよ。
    労働に疲れた日本人ならそれが
    スタンダードになっても仕方ないですが。
    象徴の分断 = 情報の分断と私は考えています。

    御意。
    そうなるとマス・メディアより、政治に期待するしか
    ないわけです。

    民主主義は全員参加が建前ですが、ここも「アゴラ」
    と呼びます。余暇がなければ政治に参加するのは
    難しい。
    選挙が祝祭に比喩され、政治がまつりごとと呼ばれる
    ように。

  43. wishborn2400 より:

    srx600_2 さん、私は「政策は不変」であると主張してはいません
    ので、憲法9条云々と言われても困ります。

    単純な確認ですので、私が「政策は不変」と主張しているということ
    であれば、それを指摘していただければよいことですし、誤解である
    ということならば、それはそれを確認していけばよいことです。
    ごく普通の議論の過程だと思いますが?

    また、各種インフラについては、国家が国民の預かり知らぬところ
    から調達し、あたかも天恵がごとくに国民にもたらしているわけで
    もありません。国民が自分達で実現させていることで、そこに国旗
    も国歌も関係ありません。

    akiteru2716さん、私も戦後世代ですので、というか個々の国民に
    それぞれが生まれる前の責任をどうこうというのは、因果関係から
    考えても無理があることです。
    しかしながら、現在の日本の国家は、戦前から継続した国家として
    自己を規定していますし、国際社会でもそうした扱いを受けています。
    ですから、戦後世代であるという理由で、戦前の日本とは関係が
    ないのだということは出来ないのです。

  44. akiteru2716 より:

    wishborn2400さん
    私が言いたいのはまさにその因果関係からして無理があるということです。
    もちろん、自国の歴史のことなので無関係ではないのは分かっていますが、当事者であるかのような認識は無理だと思う。当事者の子孫という立ち位置以外ありえない。

    したがって、「反省」の類を個々が内面化するのは不可能だし、こと若い世代が中韓的な対日感に反発を覚えるのは無理からぬこととは思うんですよ。
    「自虐史観で自信を喪失した」だとか「日帝支配反対」だとか、ちょっと不自然なほど内面化しまくってる一部の戦後世代には違和感を感じますが。

    僕自身は、歴史認識はいろいろあるでしょうが、「過去には不幸なことがいろいろあったけど、我々は仲良くしましょうね」くらいしか落しどころもないわけだし、日本の歴史の新たな一ページも日の丸の元で作ればいいと思います。旗を捨てても過去を捨てることは出来ないですしね。あえて背負う日の丸という立場でしょうか。

  45. wishborn2400 より:

    akiteru2716さん、「日本国民」は当事者の子孫というだけの
    存在というわけにはいきません。

    当事者の子孫でなくても、日本国民となることは出来ます。
    その経緯はどうであれ(血統主義も参考に)、日本国民となった人は
    当事者である国家の担い手として、日本国民は当事者となり
    日本国民となる以前の政策、つまり政策決定に関与していない
    政策による恩恵を受けることも、その負担を負う事もあるわけです。
    当事者という言葉の使い方の問題もあるかとは思うのですが
    無関係な第三者であるとはいえないので、関与のあり方の違い
    はあるにしても問題の当事者ではあるでしょう。

    戦後世代が、具体的に戦前戦中世代から断絶していないという
    ことがむしろ、国民と国家との関係をウェットなものにしているよう
    に思います。先に触れた血統主義に繋がる精神も背景にある
    でしょう。

    私には、世代(子孫という言葉でも)に着目する点において
    過剰に戦前世代の責任を承継しようという姿勢と、その反発とし
    てか戦後世代を根拠に、その責任から距離を置く姿勢とは共通点が
    あると思います。国家と個人が有機的に関連付けられているという
    点においてです。これには効用もありますが、注意が必要では
    ないかと思います。

    14は、ウエノリさんの日本の戦後世代という個別具体的なもの
    に対する返答でしたので、その世代は実際には前世代から
    断絶した無関係な存在ではないことを示し。
    その上で、ある国際条約を締結した世代が途絶えることで、
    その国際条約の締結の事実が消えるなどということがないという
    ことで、国家の政策の具体的な結果と世代交代云々との
    関連性を否定しているわけです。
    わかりにくい表現であったなら、申し訳ありません。

    戦後責任に対する私の個人的な態度はakiteru2716さんと
    ほぼ同様のもので、大変共感します。

  46. minourat より:

    白熱した愛国の議論を呼んでいると、 日本人は政府なんて信用していない米国・中国人とは、ちがうなと感じます。 日本の文化はなんといっても朝鮮の文化に一番近いとおもいます。 時には、日本の文化が北朝鮮の文化と似ているとさえ思うことがあります。ただ、救われるのは、日本文化には南方的な要素も濃いことです。 このため、朝鮮の文化ほど鋭角的でないところもあります。私は、トラさんのフアンです。 それから、 木下恵介の映画も好きでした。

    日本に生まれたために自殺に追いこめられる人たちも多い事をこころにとめておいてください。

  47. minourat より:

    相田みつ氏が仏教徒ということですが、 私の理解している仏教とはだいぶちがいます。私には、氏の言葉は世俗的な倫理のようです。 キルケゴールのいうように、 宗教は倫理を越えたところにあるとおもいます。 そうでなければ罪びとが救われるとはいえません。 母は熱心な浄土真宗の門徒でしたの。そこで、宗教学の先生に質問しながら、私も仏教を10年以上学んできました。

    相田みつ氏の言葉に私のコメントをします。

    「自分の道を、自分の足で、ひとり、歩いていかなければならない」 - 仏陀には、「汝自身を灯明にせよ」という言葉がりますが、あくまでも、 「法」に包まれていると考えるのだとおもいます。 浄土真宗では、「法」が阿弥陀仏として具現化されています。 親鸞には、「一人ならば二人と思え、その一人は親鸞である」との言葉があります。 キリスト教では、神とともにあると考えます。浄土真宗とプロテスタント(にカルビン派)の教義はとても近いです。 ともに、「他力本願」です。

    「ひとつひとつの積み重ねが、頑張ることにつながって行くんだよ」、 「勇気、強い心があればなあ」 ー 道元は、中国では「柔軟心」を学んだといっています。

    仏教が中国でも日本でも消え去ろうとしているのを残念におもいます。 最終的には、仏教がわずかに残るのは、米国だろうという見解を読んだことがあります。 米国のある小都市でも、仏教の講演会があると200-300人の聴衆が集まります。 日本では、 10-20人の年寄りが集まるだけです。