「光の道」の議論の中で「電子教科書」の議論もホットになっています。当然、賛否両論がありますが、この議論を見ていても、私には「保守主義の病理」とも言えるものが随所に感じ取られ、一言言わないではおられなくなりました。話を分かりやすくするために、今回は、7月16日の北海道新聞に掲載されたノンフィクション作家の柳田邦男さんの投稿記事を槍玉に上げさせて頂きます。田原総一朗さん等もデジタル教科書反対論者のようなので、追ってコメントします。
柳田さんの議論の進め方自体は、妥当なものだったと思います。先ず前半で、7月27日に行われた「デジタル教科書教材協議会」の設立シンポジウムでの孫正義さんの講演の内容をきちんと紹介し、その上で、「だが結構ずくめの話には、<ちょっと待てよ>と一歩退いて考えてみないと落とし穴にはまる危険がある」と続け、そこから自分の考えを述べて、「かけがえのない人間形成期の子供達が、多くの時間を電子機器とばかり向き合う時代になった時、ゲーム感覚そのままに、自己中心で勝ち抜くことばかりを考える人間を生み出すことにならないか、今こそ教育現場で議論すべきだ」と結んでおられます。
この方に限らず、子供達がパソコン、ゲーム、ケータイといったデジタル機器に囲まれて毎日を過ごしていることに、違和感を覚え、危機感を募らせている人達は数多くいます。中でもケータイのメール中毒症状は、その最たるものでしょう。食事をしている間もケータイを離せず、親の話などはどこ吹く風、食べることにさえ集中出来ていない子供を見て、危機感を持たない人はいないでしょう。勿論、こういう状況は何とか変えていかなければならないのは当然です。
だからと言って、「子供にケータイなど持たせたら禄なことはないから、持たせるな」というのは乱暴きわまる議論です。ケータイは、今や、大人たると子供たるとを問わず、殆どの人達の生活の一部であり、「社会を支える仕組」の一部です。外を歩くには靴が、雨の日には雨傘が要るのと同じような状況です。従って、一部の人達が、一つの側面からだけものを見て、安易に「規範」を決めてよいようなものでは、最早なくなっているのです。
ケータイの問題に限らず、時代の変わり目には、新しい流れに違和感なく溶け込んでいく人と、そうでない人がいるのは、いわば当然のことです。どんなものにもプラスとマイナスの両面がありますから、このどちら側を見るかによって、新しいものに対する対応が180度変わるのも当然だからです。但し、マイナス面だけを見て全てを否定していたら、世の中には何の進歩も生まれないでしょう。何事につけ、「どうすればプラスを生かし、マイナスを防げるか」をきめ細かく検討することこそが、常に必要なのです。
私が「保守主義の病理」と呼ぶものは、次の4点から構成されています。
1)「変革」がもたらす「悪」を回避したいばかりに、「変革」そのものを「悪」と決め付けること。
2)とにかく「変革」は嫌いなのだが、「変革がもたらす悪」を特定できないので、争点をそらせて、周辺に「悪」を見つけ出そうとすること。
3)「変革がもたらすプラス面」、言い換えれば、「変革を拒否することによってもたらされるマイナス」については、敢えて目をそらして、論じないこと。
4)「自分が慣れ親しんできた古き良きもの(自らの価値観)」を、さしたる理由もなく、新しい世代に押し付けようとすること。
以下、柳田さんの論点に、この病理の一つ一つを当てはめてみたいと思います。
先ず、柳田さんは、「ケータイやゲームのようなデジタル機器に毎日接していると、親子や友人と接する時間が少なくなり、会話も出来なくなり、相手への思いやりもなくなる」と論じ、従って「同じデジタル機器である電子教科書と毎日接していると、同じ事が起る」と決め付けるが如き論旨を展開しています。
(本文の中にはそのような直接的な表現はありませんが、本文より重い「表題」には、ずばり「学校教育のデジタル化は子供の人格形成を阻害する」と書かれているので、恐らくそれが柳田さんの結論なのでしょう。)
しかし、ここには大きな論理の飛躍があり、私の言う「保守主義の病理」の1)が明確に示されています。
ケータイやゲームが問題視されているのは。年がら年中やっているからです。親子で話し合って、「ケータイやゲームは一日に一時間だけ」とか、「食事中は禁止」とかのルールを作れば良いのです。
一方、電子教科書を見る時間は、これまで紙の教科書を見ていた時間です。(尤も、紙の教科書よりは子供達にとってはるかに面白いので、恐らくその時間は倍ぐらいにはなるでしょうが、それは「子供が勉強をする時間が長くなった」事を意味するのですから、喜ばしい事でこそあれ、憂うべき事ではないでしょう。)
紙の教科書が電子教科書になったからと言って、紙と鉛筆を使っての「書き取り」や、「筆算」の練習時間がなくなるわけではありません。クラスで討論する時間がなくなるとか、体育の時間がなくなるというわけでもありません。先生は黒板に文字を書く代わりに画面を使うかもしれませんが、だからと言って、生徒との会話がなくなるわけではありません。
紙に印刷された「固定的な」教科書が、読み手の興味に従って内容が拡大する「柔軟な」デジタル教科書に変わったからといって、「利用者の意図に反して失われるもの」は何もない筈です。
次の問題は、先回(8月16日付)の私のブログ記事でも書いたことに関係します。
「光の道」の議論をすると、すぐに「ソフトバンクの得失」といった低次元な話に持っていく人達が後を絶たないように、ここでも、柳田さんは、ソフトバンクの社長である孫正義さんがデジタル教科書の熱心な提唱者であることから、「自分の会社の商売拡大の為に熱心なだけなのだ」という矮小な解釈へと、読者をいざなうような書き方を敢えてしておられます。
勿論そういう面があることも否めないでしょうから、「その点は割引して話を聞いた方がいいですよ」という程度の注意喚起はあってもよいでしょうが、それ以上にこの事を強調することには、何の意味もない様に思えます。「電子教科書」の功罪を論じる立場からは、その「功罪」のみを論じればよいのであって、それについて語っている人の職業や生い立ちがどうであるかというようなことは、本来、議論の本筋とは何の関係もない筈です。
今は世界中が環境保全に熱心で、「環境保全の為には太陽光発電が有効だ」という議論は至るところで耳にします。しかし、こういった議論が広まることが、明らかに太陽光発電システムをつくっているメーカーにとって有利なことであるにも関わらず、「そんなことは関連機器メーカーが自社の利益の為に言っているに過ぎない」等と言ってケチをつける人は何処にもいません。
人々が「環境保全」の議論をする時には、「本当にそんなに大切なことなのか」「どの程度の犠牲なら払ってもいいのか」というようなことが争点であって、「それで誰が儲かるのか」等ということを気にする人は何処にもいません。「電子教科書」の議論でも、その点は同じであるべきでしょう。ですから、敢えてこれにこだわっているかのような柳田さんの議論は、私には「保守主義の病理」の2)に該当するような気がしてならないのです。
そもそも、実際に自分で事業を起こそうという事など考えたこともない人には、「事業家精神」というものの本質を理解するのは難しいのだろうという気がします。孫さんが「デジタル教科書」に熱心なのは、「そうなると自分の会社が儲かる」と考えるからではなく、「それが良いことだ」と確信しているからです。彼は30年前に「デジタル情報技術こそが人間に多大の恩恵を与える」と確信し、この30年間ずっと、この確信に支えられて事業を拡大してきました。ですから、彼の確信と合致することが起れば、彼の会社の利益につながるのは当然なのです。
さて、次の問題に移ります。これは更に重要な問題です。
どんなことにもプラスとマイナスの両面があるのは普通ですから、マイナス面を色々と指摘するのはよいことです。しかし、こういったマイナス面を危惧するが故に、「変革」をやらないことは、それによって得られるはずだったプラス面を放棄することを意味することを忘れてはなりません。
柳田さんは「学校教育をデジタル化すれば、『自己中心で勝ち抜くことばかりを考える人間』を生み出す」というようなことを書いておられますが、それでは、「自分のことを自分できっちりと考えて、競争に勝ち抜ける人間」をどうして生み出していくかについては、何も言っておられません。
「優しさ」や「思いやり」は大切であり、その大切さを教える教育は必要です。しかし、それだけでは、教育の目的の一部しか果せない事を、あらためて訴えたいと思います。
(ちなみに、「優しさ」や「思いやり」の大切さを教えたければ、映像をふんだんに取り入れて、色々なストーリーの中に子供達を惹き込む電子教科書の方が、紙の教科書よりはるかに有利なのは明らかであり、「教育のデジタル化がその為にマイナスになる」という妄想については、馬鹿々々しくて論評する気にもなれませんが、ここでは、敢えてそのことには深入りしない事にします。)
「教育改革は可能か?」と題した8月9日付けの私のアゴラのブログ記事にも書きましたように、教育は多くの目的をカバーしなければなりません。「企業戦士」を育てることが教育の唯一の目的とは勿論思ってはいませんが、少なくとも、私は、「生存競争に勝ち抜ける能力を与えることもせずに、自分自身でつぶさに見てきた国際的な競争社会に日本の若者達を放り出す」程無責任にはなれません。
では、日本の教育が今のままで、将来の日本の若者達が国際的な競争力を持ちうるかといえば、私には全く自信はありません。柳田さんには自信がおありなのでしょうか?
「電子教科書を導入すれば、将来の日本の若者達は競争力を持てる」などという短絡的なことを、私はいささかも思っていませんし、そんなことを言うつもりもありません。しかし、電子教科書の導入すら躊躇しているようでは、どうやって教育の水準を上げ、日本の若者の競争力を上げることが出来るのでしょうか?
私の「保守主義の病理」の3)にずばり該当してしまわないように、変革を拒否する人達には、きちんとした代替案を、自信を持って示して頂く必要があります。
私の「保守主義の病理」の4)については、あらためて多くを語る必要はないでしょう。
多くの保守主義者が好んで話すことは、「美しい日本」についてであり「古き良き時代」についてですが、それが本当に美しいことなのかどうかは定かではありません。著名な数学者の藤原正彦先生などは、「年功序列」についてまで「このような美しい日本の慣習は、今後とも守っていかなければいけない」と本気で言っておられる様なのですから、本当に心配になります。(私の見るところでは、日本の「年功序列」にどっぷり浸かってきたビジネスマンの国際競争力は、ほぼゼロに近いでしょう。)
TVドラマで中国や韓国の昔の科挙の試験のシーンなどを見ていると、巻紙に毛筆でさらさらと答案を書いています。実に美しい姿です。この時代は、故事来歴に精通し、漢詩をそらんじることが出来ねば、如何に見識があっても競争には勝てませんでした。しかし、我々の誰も、もうそんなことは出来ませんが、現在のビジネスの世界ではちゃんとやっています。
逆に、我々が現実に生きている今の世の中では、「英文のmailで日常の意見交換をし、ネットで必要な情報を手早くチェックし、グラフィックを駆使したプレゼンテーションで自分の考えを売り込む」といった事が出来ねば、如何に立派な見識があっても、次第に通用しなくなってきています。(こういうことが出来なければ、本当の実力を問う前の「簡単な一次試験」で敢え無く落第してしまい、将来の国際ビジネス社会においては、中国人やインド人の部下になるしかないのです。)
それぞれの時代で役に立つ武器は違うのですから、将来のある子供達には、大人達の好き嫌いは別にして、「将来役に立つ武器」を使いこなせる教育をちゃんと与えてやらなければなりません。視野の狭い大人達の勝手な思い込みで、子供達を「美しい弓矢」の世界に閉じ込め、「鉄砲」に触れることを禁じてはならないのです。
コメント
さすがに今時電子機器が子供に与える悪影響はないですね。
無論、代償として失う能力は有るでしょうが、今後の社会のあり方を考えた場合、ITリテラシーの重要性は議論の余地は無いでしょう。
ただ、個人的には、電子教科書という技術そのものには違和感が無いのですが、政府(民主党)の進め方に違和感が有り、素直に賛同出来ません。
光の道もそうですが、中央集権的で縦割り行政的に感じます。
例えば、道州制を導入して、一つの州がIT世界一の地域を目指して集中投資する一環としての光の道、電子教科書(住民の合意有り)であれば諸手をあげて賛成します。
しかし、国家戦略室が機能せず、国家ビジョンも示せないのに、総務大臣が一部の施策をぶち上げても、なにそれ?としか思えません。
選挙の時に唱えた他の施策と整合性を取ってから発表して欲しいものです。
保守主義の病理というものが提示されていますが、それはそのまま
改革なり変革を肯定する人にもいえることではないでしょうか?
それが保守であるか、改革であるかというラベリングにどれほどの
意味があるのか疑問です。
電子教科書への批判を保守主義という枠に収めることで「悪」の
レッテルを貼っているように見えます。
電子教科書がそんなに良いということであれば、試験的に導入して
具体的な効果を議論すればいいことであって、反対する人を保守と
いう必要はないのではないでしょうか?
また、「優しさ」や「思いやり」の大切さについて教える際に、映像が
ふんだんに取り入れられていることが「はるかに」有利になるなどと
いうことがあるでしょうか?非常に疑問です。
音声や映像など、情報量が増えることを単純に評価しているだけ
なのではないでしょうか。そうであれば、論者に保守と批判されて
いる側の主張にもうなづける部分がありそうです。
電子教科書には期待したいのですが、正直今考えられている程度
のことであれば、タッチパネル付きの携帯ゲーム機のソフトとして
開発する方が妥当ではないかと思います。
松本さんの意見に賛同します。
ただ、「保守」という表現でまとめられると違和感があります。
僕は32歳ですが保守を自任しております。
それは要は日本の古き価値観を尊重すべき
という考えに基づいております。
ただ、日本の価値観はいいものを節操無く取り入れる
価値(たとえば脱亜入欧といった考え)も含んでおります。
柳田氏にしても自分の価値観に沿わない、もっといえば
理解できないものへの拒絶感は、保守ではなく守旧派
というべきでしょう。
デジタル教科書はあくまでツールです。
ツールを使いこなせない、違和感があるという方々は
使いこなせないと生きていけない我々のような世代とは
相いれません。
「手書き」で仕事する時代は終わり、僕らのような
「手書き」でやり取りする事すらしなかった世代には
「手書き」のよさは牧歌的に覚えます。
この書き込みだって5分程度です。
同じ文章を「手書き」すれば、いくら時間がかかるか
わかりません。
出来れば、古い世代には、「自分たちにはわからないが
時代なのだから、仕方ない」という見守りが
必要だと思います。
過激にいえば世界経済・社会と関係を形成する必要の
ない「お爺ちゃん」が社会を語り、人口が多いばかりに
日本の主流的な意見を形成しようとしているところです。
神学論争ややめて欲しいものです。
電子教科書が教育に必要だというなら教育を専門としている企業が牽引して
どんどん推進すればよいと思います。
保守的である必要もないでしょう。
大手学習塾などで導入され、有益な学習だと認められれば使用率もあがってゆくことでしょう。
そもそも電子教科書に必要なデータは限定的かつ固定情報が大半ですのでクラウドシステムである必要はありません。
光の道には全く関係なく推進できるものです。
そんなに電子教科書が必要なら今すぐできるソリューションを提案すればよい。
ソフトバンクが自社利益のために無理やり光の道と電子教科書を一緒に語るから批判されるのです。
電子教科書に関係ない「光の道」というキーワードを取り除かない限り、
ソフトバンクの商売の道具に教育を利用していると言われるのは当然のことです。
ちなみに端末を無料で配布するから商売ではないなどという騙すような発言もやめたほうがよいです。
端末は無料で通信費で稼ぐのはソフトバンクのいつものビジネスモデルですから。
SBに関する松本様の立場やコメント欄のSBに関する話題は置いておいて、それ以外の主要な論旨部分は非常に賛同できます。
柳田様の論旨に似たような印象をどこかで見たと思ったら、「英語教育」について守旧的な方の論旨とよく似てるんですね。曰く「美しい日本語を・・・」とか、あるいは「品格議論」でも同じかな。
道具や能力として何が大事かという観点と、変化を嫌う頑迷な大人の感情論のミスマッチが子供に迷惑な教育論を生み出すということをよく指摘していただけていると思います。
私は電子教科書には賛成ですが、反対する人たちを「保守主義の病理」とまでけなす必要はあるのでしょうか。電子教科書の利点、欠点をきちんと整理して理解してもらえばいいだけの話です。
私はiphone,ipadを使用しているソフトバンクのヘビーユーザーですが、ソフトバンクのやり方には疑問を持っているんですよ。というのは教育や、日本のため!などと大義を歌っていますが実際は企業として利益を得るための行動の一つでしょう。
それを表に出さないのは孫さんの方針なのかもしれませんが
はっきり言うと「偽善」っぽいんですよね。ものすごく。
別にいいじゃないですか。儲けたい。で。
前回のコメントで話題に出したSIMロックの件も
もう食傷気味だと思いますが、要するに
「ソフトバンクで囲い込まないと、儲けられない」
ってことなんですよね?ならそうはっきり言えばいい。
それを難しいことを言ってみたり、誤魔化そうとするから
余計にイメージが悪くなる。
別に私は「一番良いものを一番安く買いたい」なんて思ってませんよ。ソフトバンクの電波は最悪なんで、多少高くてもいいからAUやドコモの回線を使用したい、そう思っているだけです。
そこに強制的にロックをかけてしまうことに対してどんな言い訳もないでしょう。ユーザーを束縛しているだけです。
話は反れましたが、結論としては
「ソフトバンクは世間から信用されていない」ってことなんでは
ないでしょうか。光の道、電子教科書も結構ですがまずは本業である携帯電話の電波の改善から努めてはいかがでしょう。
いつも松本さんをその属性で批判しているコメントをみて思うのですが、因果関係を間違えてるんじゃないでしょうか。
松本さんは、ソフトバンクにいるから自社の利益のになるような言論をしている、のではなくて、
自分の成したい理想があって、それがソフトバンクで出来るからソフトバンクにいると捉えるほうがいいんじゃないですかね。
松本さんの経歴を見れば、いやいやソフトバンクにしがみつかなければならない人でも無いと思われますし。
因果関係(というかはわかりませんが)を逆にとらえてるんじゃないですか。
そういう点からすれば、孫さん(ソフトバンクを創業した)がソフトバンクに有利なように議論を誘導しているという批判はあってもいいと思いますが、松本さんに対してはあたらないと思いますけどね。(孫さんが自社のために誘導していると言っている訳ではないです。)
jogmec63さんのコメントに深謝します。
全くその通りで、私はアゴラでは自分の感じることを訴え、信じることを主張したいのであって、会社の利益の為に、わざわざアゴラのような場で何かを語るインセンティブはありません。
或る人は、「そういう話をしたいのなら、先ず会社を辞めてから話せ。そうでなければ話す資格はない」とまで言われています。出来ればそろそろ自由な身になりたいと思っている私にとっては、こういうサジェスチョンには魅力は感じますが、賛同するわけには行きません。
SIMロック問題などについては、会社の方針と私の考えは全く同じなので、そのことを私はそのまま語っていますから、私の会社の方針が間違っていると思われる方はずばり批判していただけばよいし、私も喜んで真っ向から受けてたっています。
しかし、「電子教科書」や「光の道」の議論の場合は違います。成程、これらの問題も、私の勤めている会社の仕事とはいろいろな関係がありますが、私は違うレベルで論じているつもりです。
これらの問題を論じている時に、私の論点とは何の関係なく、「偉そうなことを言う前に、先ずお前の会社の悪いところを直せ」と言われるのでは、議論になりません。「国はこうあるべき」と言っているに、その是非を論ぜず、「お前の会社はこうしろ」と言われるのでは、議論がかみ合わないのです。
アゴラはレベルの高い「自由な議論の場」であるべきですから、是非議論の基本ルールを守っていただき、「それぞれの論点に対して批判し、反論する」という形にしていただけると有り難く存じます。
松本氏について、SBとの関係を問題にするのは間違いだと
思いますが、柳田邦男氏が寄稿された文書にSBに関する
批判がある以上、それを槍玉にあげておいてSBがらみの
発言は不当であるとはいえないでしょう。
それを問題の矮小化であると考えるのは松本氏の認識で
あって、孫氏のビジネスマンとしてのこれまでの経緯から
daibuuepon氏のような認識をもたれる方もあるのです。
柳田氏もそうした観点から批判をなされているのでしょう。
これは矮小化と一言で断じられるものではありません。
彼がそう言ってるんだから、そうなんだ。では済みません。
又、今回コメントを寄せられている方は、松本氏とSBとの関係を
中心に批判しているということはありませんし、松本氏に対して
敬意をはらってコメントされていると思います。
ここでコメントしているわけでもない「或る人」とは違いますよ。
そうした人と同一視されるのは、少々残念に思います。
電子教科書も、光の道も、それが「税金・公金目当て」「税金・公金頼み」であることに、大きな違和感と疑念があるのです(建設ゼネコンからITゼネコンへの利権移動)。
また「保守」を語る際に、世間一般でもそうですが、「民族派」と「保守」の別が成されていないところに根本的な問題がありそうです。
例えば、日本には「保守政党=正しい自由主義」を掲げる政党は皆無です。
だから大方の良識にとって票を投ずる価値のある政党が不在なのでしょう。