記者会見
2008年5月16日、金曜日。神保町の学士会館に設けられた会場で、出口・野上と共に、百名近いマスコミ関係者を前に記者会見を行っていた。背後にはライフネット生命のロゴをあしらったグリーンと白が版目状に並び立つ看板。NHKをはじめとしてテレビカメラが数台。IT系のニュース記者は写真の画質にはさほどこだわらないのか、小さなデジカメを持参して自ら撮影をしていた。
「岩瀬さん、落ち着きないから気をつけて」
そう注意されていたので、ピンと背筋を伸ばして微動だにしないように心がけたところ、身長180センチを超す野上より座高が高く映っていた。
内容は、緊張していて余り覚えていない。冒頭に、出口が顔をやや紅潮させながら、創業の理念を語った。原点に立ち返って、本当に消費者志向の生命保険会社を作りたい。保険料を半額にして、若い世代が安心して赤ちゃんを産めるような社会にしたい。保険金の不払いを無くして、生保業界への信頼を回復させたい。語り口調はいつものようにゆったりだったが、言葉は力強かった。
次に、野上が二つの商品について説明した。
「今回は、保険料はかなり勉強させてもらいました」と関西人らしい言葉で、我々の保険料を初めて公開した。「おおっ」とどよめきが・・・起こることはなかったが、マスコミの方々が個別商品の保険料水準まで頭に入っていることまでは期待できないので、無理もない。しかし、業界関係者が同席していたら、我々の思い切った戦略的な価格設定に驚いたに違いない。開業前から、同業者の間ではネット生保がどのような価格水準で攻めてくるのか、注目が集まっていた。焦点はもっぱら、当時最安値だったO生命を下回るか否かだった。
「岩瀬さん、まさかO生命よりは安くしてこないですよね」、そのようにカマをかけられたこともあった。しかし蓋を開けてみると、標準的なケースである「30歳男性、3000万、10年定期」という条件での保険料は、最安値のO社が月額約5000円であったのに対して、我々のプライスは約3割安の3484円だった。記者会見後に発表したプレスリリースを見た業界関係者からは、「随分と思い切った値段を出してきましたね」とのメールを何通か受け取った。
理念ベースド・プライシング
この価格設定にも裏話がある。実は、開業の数か月前、役員の間で最終的な価格水準について議論していた。従前であれば保険料水準それ自体が監督当局である金融庁の認可事項であったが、規制緩和後は、保険会社の事業経費および利益に該当する「付加保険料」については、保険会社が経営の裁量で決めることができる、とされていたのである。
僕はMBAで学んだプライシングの論理を振りかざして、次のように主張した。
「いくらネット生保と言っても、顧客に知ってもらうためにはある程度のマーケティング費用をかける必要がある。そこから考えると、現行の「付加保険料=15%+α」というのはいくらか低すぎるように思う。価格を決める際には、(1)競合企業の価格水準、(2)コストに適正な利幅(マージン)を上乗せた水準、そして(3)顧客から見た『払ってもいい水準』というのがあるが、このようなセオリーからみても、付加保険料はもっと高い水準でもよいのではないか」。
これに対し、社長の出口が反論した。
「理屈でいえば岩瀬君の言う通りかも知れない。でも、僕らが創業したのは、保険料を半額にしたいという思いがあったから。だから、付加保険料は現行の水準で行こう」
言うならば、オーソドックスなマーケティング理論とは別の、「理念ベースド・プライシング」という訳だ。結局、出口のこのような思いを尊重して、保険料も当初の水準で行くことにした。
そして、会見の最後で、僕が新しいホームページの説明を行った。シンプルなトップ画面。一枚めくると、保険料の見積もり画面。年齢と保障内容を選択すると、スロットマシンのようにリアルタイムでクルクルと保険料が変化する仕組みだ。マスコミの方々も、興味を持って見てくれた気がする。そして、少しでも生命保険の仕組みを分かりやすく解説しようと試みたパラパラ漫画形式のコンテンツ。いずれも、「自分が一人の顧客だったらどんなものが欲しいか」という観点から作ったものだった。
会場からのQ&Aが終わると、最後に写真撮影。三人でテーブルの前に立ってフラッシュを浴びる。「はい、こっちに目線お願いしまーす」「次はこちらです」まるで、芸能人にでもなった気分だった。
「三人とも、表情が少し硬いですよ!笑ってください」
会場では、まだ入社して間もない中田が長い髪をなびかせながら、方々に手際よく指示を出していた。この手の記者会見の経験は豊富なので、安定感がある。社内からは広報、マーケティングチームだけでなく、査定や支払いを行う事務チームからもスタッフがヘルプで出て来てくれていて、まさに全社を挙げての船出だった。
最後に、皆で集まって記念写真を撮った。いよいよ、始まる。会見での疲れも忘れ、すぐに頭の中は翌々日の開業に移っていた。
才能を愛する能力
この日の晩、谷家さんと二人で麻布十番のイタリアンレストランで過ごした。ネット生保プロジェクトを始める前にも、二人きりで来た店だった。メニューはなく、ショートカットで個性的なマダムが口頭でその日の献立を説明していく。二人とも最後までちゃんと聞く集中力がないので、結局「一番おススメはなんですか?」の質問で決めた。
「谷家さん、これ見てください」
丸まった新聞大の用紙から輪ゴムを外して、両手で広げて見せた。ライフネットのトレードマークである緑の大きな顔が、紙の中央に描かれていた。
「これ、明後日の朝刊に出す全面広告です。できたてホヤホヤ。まず、谷家さんに見てもらいたくて。」
ロゴの上には、鮮やかなブルーの文字で以下のテクストが書かれている。
「ライフネットは
生命保険の、
新しい『見直し』を
提案します。
『いま入っている保険、
あなたの大切なひとに
説明できますか。
必要以上に、保険料を
支払い続けては
いませんか』
私たちのウェブサイトを
ひらいてください。
2008年5月18日
ネット保険の新しい風、
ライフネット生命保険
出発します」
谷家さんはこの広告を手にとって、まじまじと眺めて、笑みを浮かべた。僕は、谷家さんの笑顔が好きだ。少年のように喜ぶ顔を見ると、この人のためにも頑張ろうという気になる。
「よく、出口さんと二人でここまで来たね。これからが本当のスタートだ。ようやく、土俵に立つことができた。
これまでやってきて、嬉しい誤算があった。岩瀬君が個人としてすごく頑張り屋だというのは分かっていたけど、正直ここまでいいメンバーを集めることができるとは思っていなかった。中田さん。松岡君。馬場君、古川君。その他の皆も、個性的で高い志を持ったメンバーばかり。人はなかなか自分よりも優秀な人を仲間に招き入れることができないものだけど、岩瀬君は心の底から相手の才能にほれ込み、リスペクトすることができる。相手にもそれが伝わるから、いい人が集まってくる。
もしかしたら、君の才能で一番大切なのは、この相手を好きになる力も知れない。今後、ライフネットが大きく羽ばたくためにも、それを大事にして欲しい」
いつもよりちょっとだけ高いワインを頼んで、二人で乾杯をした。ライフネット生命の将来に。
開業当日
開業日はネットの会社らしく、日曜日を選んだ。ウェブサイトの開通作業を担当するシステム部やマーケティングの人間を中心に、15名近い社員がオフィス徒歩5分のビジネスホテル「東京グリーンパレス」に陣取った。目覚ましを午前3時半にセットして、仮眠を取ることにした。
午前4時、まだ薄暗い中会社に向かうと、すでに出口がシステム部のスタッフとともに出社していた。ネットワークやシステム開発を委託していたパートナー企業の方々も、何名も待機していた。皆が通る席の上に、近所の老舗ベーカリー「シェ・カザマ」で前日に準備していたサンドイッチが丁寧に並べられていた。パンは少しだけ固くなっていたが、出口の細やかな配慮が嬉しかった。
5時過ぎだっただろうか。一連の準備作業が完了した。予定よりも少し早いけど、ホームページも開通することにした。「せーのっ!」と、担当者と手を合わせてボタンを押した。ライフネット生命のウェブサイトが本番化した瞬間だった。出口を囲んで、皆でガッツポーズをして記念撮影をした。
すぐに自分のデスクに戻って、契約の申し込み手続きをした。何としても、自分で契約番号1番を取りたかったのである。もっとも、外部から現在の契約者数を割り出されるのも嫌だったので、証券番号はランダムに選ばれた数字からスタートしたが。「かぞくへの保険」3000万円。「じぶんへの保険」入院日額1万円。すぐに申し込み手続きは完了した。何名かの同僚も、申し込み手続きを完了させていた。
午前7時半には全社員が出社して、朝礼が行われた。テレビカメラも、その瞬間をとらえるべく回っていた。
「皆さんの頑張りのお陰で、先程、無事に開業することができました。ようやく、スタートラインに立てたわけです。これから我々が理想とする生命保険会社を、皆で力を合わせて作っていきましょう。」
出口の挨拶が終わると、社内に歓声が鳴り響いた。ようやく、はじまった。僕らの夢を乗せた、旅路が。
(つづく)
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第1回 プロローグ
第2回 投資委員会
第3回 童顔の投資家
第4回 共鳴
第5回 看板娘と会社設立
第6回 金融庁と認可折衝開始
第7回 免許審査基準
第8回 100 億円の資金調達
第9回 同志
第10回 応援団
第11回 金融庁の青島刑事
第12回 システム構築
第13回 増えていくサポーター
第14回 夏の陣
第15回 伝説のファンド、参戦
第16回 ラッキーカラーはグリーン
第17回 偶然のメール
第18回 予備免許