「殺人と死刑」― 千葉法務大臣の功績 - 北村隆司

北村 隆司

落選後も続投が決まった千葉法務大臣は厳しい批判に晒されました。その批判の多くは、議席の有無と言うより、地方参政権の付与、従軍慰安婦、夫婦別姓問題などで保守派の怒りを買った事と「死刑廃止を推進する議員連盟」にも名を連ね、死刑制度についても慎重な姿勢を示して来た事の方が大きかった様に思えます。


その千葉法相が、議員任期満了の前日の7月24日に、自ら立会って死刑囚2人の刑執行を行ったと知り、自分の信念を簡単に変える事に落胆したものです。

処が、「裁判員裁判では国民が重い決断をする可能性があり、今後は裁判員が死刑判決を言い渡す局面も考えられることから、死刑囚がどのように最期を迎えるか公開することによって議論が活発化する事を期待する」として、刑場を報道陣に初めて公開する決断をしたと知り、千葉法相を見直しました。

死刑を巡っての世界の動きは、死刑廃止の方向に大きく動いており、EUはその加盟条件として死刑の撤廃を求める程で、旧東欧圏の国々も次々に死刑を廃止してEUに加盟申請している現状です。

目を米国に転ずると、全米50州の中でも37州が死刑を認めるなど、米国は日本と並んで死刑を認める先進国の中でも例外的な国家の一つです。

死刑を肯定する米国ですが、その是非を巡る論議は勿論、処刑法についての論議は活発に進められ、残酷と見做される処刑法は憲法違反として禁じられています。国民の80%近くが死刑制度を支持する日本ですが、絞首刑が適切な処刑制度であるか同化についての論議は全く聞かれない事も、他の先進国と大きく異なります。

最近の世界の流れが正し方向に向かっているか否かは別として、重大犯罪を犯した人間と言えども、命の尊厳を守り、不要な苦しみを受けない権利は持っているという考え方が主流となりつつある現在、日本もその論議に参加すべきではないでしょうか?

この様な論議を重ねた結果、米国で絞首刑を合法と認めている州はほぼ皆無で、最近は電気椅子やガス殺も残酷だとして禁止され、大半が薬注による安楽死を採用しています。イラクのフセイン元大統領が絞首刑にあった時、故意か偶然か、絞首される瞬間の映像が世界に流れ、その残酷さに私も思わず目を背けたものです。

処刑の公開、非公開も文明の発達と共に変化しました。現在では、中近東の一部や北朝鮮を除いて公開処刑は地球上から消えつつあります。処刑法でも斬首、焼殺、股裂き、撲殺, 石打ちなどは殆ど無くなり、絞首刑も日本を除く先進国からは消え去りました。

山一證券顧問弁護士夫人殺人事件で妻を殺害された岡村勲弁護士は、事件の後、死刑廃止論者から死刑肯定論者に変ると共に、被害者の人権も守られるべきだとして、刑事訴訟法を改正し被害者参加制度を盛り込む成果を挙げました。岡村弁護士は死刑についての立場を変えた理由を聞かれ「人間は何かがあって変る」とその動機を説明されましたが、岡村弁護士の悲劇を知る者には、誰でも納得出来る言葉です。

かと言って、死刑、臓器移植、ハンセン氏病患者問題、エイズや同性愛の問題など、人間の根源に拘る重要な問題が、事が起こるまで論議にならない日本の現状は深刻に考え直す必要があります。

米国では加害者の尊厳死を認めると同時に、被害者の権利も尊重し、処刑には被害者、加害者を問わず希望する家族や弁護士、宗教関係者などの立会いが認められています。公開処刑が否定される一方、完全非公開も否定されつつあるのが世界の流れです。

「死刑と殺人」の問題を論議する時、コロンビア大学ジャーナリズム大学院の故フレッド・フレンドリー教授(元CBS社長)が主宰した公開講座の「That Delicate Balance II : Our Bill Of Rights ? Criminal Justice : From Murder to Execution」と言う講義(略1時間)は大変勉強になります。特に、法科大学院の学生には是非共見て欲しいと思います。

意見の異なる論客が、名司会者に導かれて論議する様を聞いているうちに、似ても似つかぬ物と確信していた「殺人と死刑」の「意味の違い」が解らなくなる不思議な公開講義です。毎回の公開講座の後、フレンドリー教授が「一見全く異なる事でも、掘り下げると極めて微妙な違いしかない事が世の中には溢れている。米国憲法の冒頭にある『Bill of Rights』で、国民の権利を保障した米国の特徴は、国民がこの微妙な差を判断する権利と義務を定めた事であり、この講義は皆さんを結論に導く為の講義ではなく、何事も「デリケートバランス」の上に立っている事を認識した上、皆さんが国民の一人として結論を出す責任がある事を伝えたい事にあります」と言う締めくくりの言葉が印象に残る傑作のシリーズです。

千葉法務大臣の行動が、この様な論議を日本国人の間で深まるきっかけとなれば、千葉法務大臣は国民に立派な置き土産を置いて退任される歴史に残る法務大臣と言っても大袈裟でもありますまい。

コメント

  1. bobbob1978 より:

    「重大犯罪を犯した人間と言えども、命の尊厳を守り、不要な苦しみを受けない権利は持っているという考え方が主流」

    この点は誤解があると思います。アムネスティなどの市民団体の主張はそのレベルかも知れませんが、法哲学や法理論のレベルで「全ての個人がそのような不可侵の権利を持っている、だから死刑は廃止すべきだ」という主張が主流になったことはありません。
    欧州で死刑が廃止されている一番の理由は「冤罪による死刑を避けるため」です。EUが死刑を廃止しているのは元はといえばEUの主要メンバーであるフランスが死刑を廃止していたからです。そのフランスで死刑が廃止された背景には、冤罪者(クリスチャン・ラニュッチ)に死刑を執行してしまったという事件があります。
    「死刑廃止の一番の理由は冤罪回避だ」と書くと「死刑でもその他の刑でも冤罪被害が回復不可能なのは同じだ」と反論する死刑支持派がいますが、法理論で重視しているのはそのような個人レベルの功利ではなく、社会全体における死刑の「功利」です。
    死刑制度の持つメリットをAとし、デメリットをBとします。Aには死刑の一般予防効果(いわゆる死刑の犯罪抑止力)等が含まれます。Bに含まれるのは冤罪者に死刑を執行してしまうことにより司法に対する信頼が失われること等が含まれます。単純に数値化するのは難しいですが、功利主義の立場から考えると、A-B>0であるなら死刑制度は社会的なメリットの方が大きいので存続すべきであり、A-B<0であるなら死刑制度はデメリットのほうが大きいので廃止すべきだ、という論理になります。
    ここで各種の統計からAはほとんど0である(A≒0)と推測されるのに対し、Bは確実に0よりは大きい(B>0)と推測されるので、A-B<0となり、「死刑は廃止すべきだ」という結論になります。これが欧州の死刑廃止の法レベルでの考え方です。

  2. bobbob1978 より:

    何故か日本の死刑廃止派は「犯罪者にも生きる権利がある」や「死刑は残酷だ」等感情や情緒に訴える主張を行う人たちが多いですが、そのような感情的な主張では死刑支持派が8割強を占める日本で受け入れられることはないでしょう。
    功利主義的思考法は日本では人気がないですが、論理に訴えた方が遥かに訴求力があると思いますね。

  3. bobbob1978 より:

    ちなみに死刑制度のメリットAに関してですが、これには社会の文化も影響しているようで、全ての国でA≒0となる訳ではありません。
    たとえば韓国では一時的に死刑の執行を停止(モラトリアム)した結果、殺人で起訴される人数が32%増えたという統計もあります(朝鮮日報「韓国の死刑制度の行方」)。
    この場合、A-B>0と考えられるので、韓国では死刑制度を存続すべきだと言う結論になります。

  4. https://me.yahoo.co.jp/a/6nBPvSACYJtB6vO7.NWGit0P3zM1#0cd01 より:

    どうも、犯罪者が主人公で、被害者は脇役という感じになりがちです。
    死刑になるというのは、罪を自覚すれば、生きていられないぐらいの犯罪なんだろうと思います。自覚できないからこそやれたし、生きていられるわけです。
    死刑を廃止するなら、罪の自覚もほどほどにさせる必要がありそうです。実際、ほどほどなんだろうと思います。
    毎年、何千人もの人間が交通事故で死ぬことが許容されているのは、数千人分の命と経済的利益を天秤にかけて、釣り合ってしまっているからです。
    冤罪なのに死刑にしてしまう確率が0でなくても、天秤にかけて釣り合うものがあってもおかしくないだろうと思います。

  5. wishborn2400 より:

    死刑は交通事故とは随分違いますよ。
    つりあい云々という論点に立つとしても、自動車なしではこの国の
    経済は成り立たないでしょうが、死刑制度を無くした場合に生じる
    影響は、すでに死刑を廃止している国々を見る限り、政治経済
    国民生活が成り立たなくなるほどのことはないでしょう。

    私は死刑制度を支持する人たちが、どこまで情報を持って考えた
    結果であるのか非常に疑問です。
    単なる被害者への同情によるものが多いのではないでしょうか?
    それが光市母子殺害事件の際の懲戒請求騒ぎにみるような、
    公平な裁判制度や刑事訴訟における弁護の意義などを理解しない
    ままに、感情のみによって物事を判断した結果であるとすれば、
    それ自体が大きな問題であると思います。

  6. atoman0 より:

    どこかの国で飢え死にしかけている子供のことよりも、自分のペットの犬が腹をすかしていることのほうを心配するのが人間です。
    死刑を肯定するほうも、否定するほうも、そういう神経が働いているという点では共通していていそうです。
    それぞれがどういう感情移入の中にあるかの問題なんだろうと思います。天秤はそれぞれが持っているわけです。

  7. wishborn2400 より:

    天秤、つまり要素それぞれに対する優先順位や重要性に対する
    評価はそれぞれで違っていてかまわないのですが、死刑の賛否
    に関して、とくに賛同する側に対してその決定に伴う責任をどこま
    で考えているのか疑問に思います。

    生命の尊厳等を重視して死刑制度に賛同するのであれば、冤罪
    によって死刑になった者の生命の尊厳について、仕方がないと
    いうのは生命の尊厳を軽視しているように思えます。
    また、裁判官や裁判員、警察、検察のミスであるとして、そこに
    責任があるのであって、(当然、そこにも責任はあるわけですが)
    死刑制度に賛同した自分には責任がないのだというのであれば、
    それは責任を不当に回避しているというべきでしょう。
    死刑制度が社会にとって必要不可欠ではない以上、意識的に
    それを選択しているわけですからね。

    被害者遺族の感情を斟酌するということで賛同する場合にも、
    その決定に対する責任を被害者に負わせているのではないかと
    いう疑念があります。
    被害者遺族の感情を斟酌するとし、被害者遺族のために死刑
    に賛同するというのは、冤罪が生じた場合、または死刑という
    量刑が不当に重いものであったことが死刑執行後に明らかに
    なった場合に遺族に大きな責任を負わせようということになり
    かねません。彼らが望んだからだと。
    その際、自分が死刑制度に賛成することに対する心理的な
    ハードルは大きくさげられるでしょう。彼らにそれを負わせること
    によってです。
    いまの死刑制度への賛同は、これによるものが大きいのでは
    ないかと思っています。誰かのためという言葉が、場合によって
    は言い訳として使われることを我々はよく知っています。

    死刑制度についてはよくわからないけど、被害者遺族が望んで
    いるから賛同する。これは危険なことではないでしょうか?

  8. atoman0 より:

    被害者への同情よりも、加害者という存在に対してどう始末をつけるかという問題です。
    こういう議論の動機は、大体は感情移入レベルのものだと思います。自分自身の関わりの位置と距離によって、どう変わるかは分かりません。
    どちらにしても、それぞれにとって、より気が楽になれるほうを選んでいるに過ぎないと思います。そのどっちがより合理的かという、一次元的な評価では、現実を測れません。
    私は、「殺人」を絶対的に否定する気はありません。生物世界全体を含めて、殺し合いがなくなることはないと思います。問題は、それをどう管理するかということです。
    死刑という殺人は、国家にとっては小さな殺人であり、もっと大きな、国家的利害にかかわる殺し合いのほうがはるかに重要です。小さな殺人にこだわる意味はないかもしれません。それが、近代的合理性なんでしょう。
    しかし、私の中の「前近代性」は、アイデンティティーの一部です。たぶん、真の合理性というのは中立で、多様な体系を与えるものだと思います。合理性から指図される以前に、合理性の「しっくり感」を選んでいくだろうと思います。

  9. wishborn2400 より:

    atoman0さん、死刑廃止論の根拠の一つには政治的な粛正による
    死刑の回避もありますので、国家にとって死刑制度が小さな殺人と
    いうだけのものかと言えば、そうではないのです。
    ある国家に属する人間が、その国家権力によって命を奪われると
    いうことを軽視すべきではありません。

    国家という主権間の対立である戦争における殺人云々は、この国
    の死刑制度の是非を考える上で考慮すべきではないでしょう。
    死刑制度は、あくまで我々が主権者として制度を運営していくもの
    です。その際、主権者としてその制度の合理性、妥当性を検討す
    る必要を否定すること、もしくはその検討過程の優先順位を下げる
    ことは無責任な態度であると言わざるを得ません。
    真の合理性というものは、自身が言われるように単なる仮定かと
    思いますので、論点としてはよくわかりません。

    いくつかある論点について、合理性、妥当性を検討し、それを元に
    個々の有権者が責任をもってみんなにとって最善と思われるものを
    選択すればよいのです。そこに感情的な要素が入り込むことは
    人間である以上、避けがたいことかもしれません。
    しかし、主権者として要請されているのは、単純な個々人の好みで
    政策を選択することではないのです。
    重要なのは、自分はどちらがよいと思うか?ではなく、自分はどちら
    がみんなにとってよいと思うか?ということです。