米国に住む私には、日本でサンデル教授の授業にあれだけ関心が集まった理由がよく判らず、幾人かの日本の教育専門家に教えを請いました。
中でも、戸田忠雄政策研究大学院大学客員教授から、問題の核心を突いた同氏のコラム記事のコピーを頂きましたので、全文を引用する事にしました。
「学校の先生ならだれでも、児童・生徒たちに、『自ら学び自ら考える力』(学習指導要領)をつけたいと願っている。したがって、教師が一方的に教えるのではなく、なるべく学ぶ意欲を啓発し、考える力を刺激するよう、問いを投げかけて授業を進めていく。しかし、限られた時間で一定の知識を身につけさせなければと思い、つい、自分で教えてしまう。
さらに、公民や歴史の授業であれば、異なる意見を闘わせて、答えはひとつではなく、社会的な立場によって主張や結論が異なることも分からせるようにする。学習指導要領に書いてなくても、教えるプロなら誰でもこのくらいのことは、わきまえているに違いない。
そして、問いを投げかけても、児童・生徒が簡単には答えてくれない。中高校生になれば答えではなくて、意見を出し合って議論を交わしディベートしてほしいが、不慣れなせいか時間ばかりかかって進まない。多くの教師がこのような経験をしたことであろう。大学生や院生も例外ではなく、問答法やディベート方式はあまり得手ではない。
一番の問題は、自分の意見より周囲に合わせる癖がついていること、つまり、意見の違いより、『みんなと同じ』で同調するほうを選ぶ点にある。だから、議論にならない。
小中学校の教室にクラスの目標などが掲げてあるが、『みんな仲良く』とか『学級の和』など、学級みんなで同じ目標を達成することを、強調するものが多い。そして、学校行事その他でも、集団の一斉行動などを通じて『和をもって貴しとなす』を身につける。
福沢諭吉の言う『多事争論』のように、異論を出し闘わせるなど夢のまた夢。真正面から異論を出すなど、意見の対立が人格の対立にまでなりかねない。だから、甲論乙駁ではなく、適当なところで『ごもっとも』と妥協してしまう。
こんな精神風土の日本と、ソクラテス以来の問答法と長い議会政治の歴史をもつ欧米とでは、超えなければならない壁があるな、と独り呟く。」
この文章を読み、「異を唱える」事が、子供と日本の未来の為にいかに大切かを改めて認識しました。ノーベル賞の受賞者数とか、PISAの試験結果とか、挙句は、東大への合格者数など、コンビニの売り上げ目標みたいな目標を掲げる教育政策では、国の未来は望めません。
戸田先生が描写した授業風景と対照的なのが、NHKの「課外授業 ようこそ先輩」の授業風景です。組織に属さず、自分の力で各界の第一線で活躍する人々が、出身校である小学校を訪ね、その専門とする世界と自らの人生について、後輩の子どもたちと対話しながら学ぶのがこの番組です。この授業で、活発に議論する児童の姿を見ると、一種の感動と共に、教師と児童の自主性の持つ創意工夫の力は馬鹿に出来ないと感心します。
「詰め込み」による、知識重視型の教育方針を反省して、経験重視型の教育方針をもって始めた「ゆとり教育」が目指したものは、この様な授業ではなかったのでしょうか?
私は、日本の問答無用の「詰め込み」教育の源泉を明治政府の政策に求めます。
近代化を急いだ明治政府は、勤勉で従順な国民性を涵養する事を目的に、明治19年に中学校令を発し地方や民間による教育を厳しく制限しました。それまでの日本では、多様な規模と内容を持つ「藩校」が各地に設立されました。
当初は禁止されていた庶民にも開放されたこれらの藩校は、広義では医学校・洋学校・皇学校など多種に亘り、各地方の特徴を重んじながら、第一に文を教え、後に武芸を学ばせる文武両道の教育を行い、地方文化の振興や、各地域から時代をリードする政治家や学者を輩出しました。
中学校令の目指した、何を考える事も無く、ひたすらペースメーカーのラビットを追って疾走する日本人の養成は、それなりに成功し、バブル破裂前の1980年代には、日本人が世界最速のグレーハウンド犬型人種である事を謳歌したものです。
価値の多様化が世界に広まった現在、When, Where, Who , How など御主人の決めた命題への取り組み方ばかり暗記させられ、肝心のWhat (何を) Why(何故)と言う目標設定に弱い日本人の実態が、サンデル教授の講義で明らかになったのが、同教授の人気沸騰の原因だとしたら、寂しい限りです。
教育に於ける国家の責務は、全ての国民が基礎学力を充実できる機会を持てる事に留めるべきで、どのような人間に子供達を育てるかという事は、そもそも国が関知すべき領域ではありません。自分の子供にどのような教育を受けさせるかを決定することは、国民=各家庭(親・保護者)の権利であり自由で、日本も「藩校制度」や「ゆとり教育」を見直すべきだと思います。因みに、この考えを信ずる英米両国では、教育の実権を国から奪い、全て民間か地方に任せています。
「和をもって尊し」の時代は終りました。今後は、多様性と地域性を重視した教育政策が求められており、今や、「異」を唱える長所を真剣に考える時代ではないでしょうか?
コメント
次の3点からサンデルの講義は広く興味を持たれたんだと思います。
1. 身近な問題を使ってカントなどの哲学者の考え方を解りやすく説明した点。
2. 生徒の意見を正しい間違いと断定せず、かといって適当に受け流すことなく的確にまとめた上で議論を前進させていく講義スタイル
3. 吹き替え者(うすいたかやす)の迫力
欧米の議論の風土と比べると、日本の「和をもって貴し」というのは美辞麗句な表現のように思います。日本にあるのは同調圧力で、異なる意見を聞いて、お互いに意見や議論を戦わせるのではなく、異なる意見を聞くとたちまち感情的になって、罵倒と中傷の応酬になりがちです。声の大きい方が、いわば言葉の暴力で相手を黙らせ、本当の意味での、議論、意見の応酬になりません。あるいはカルトの教徒よろしく、主張を念仏のように唱えるのみで、異なる意見を受け止めて、それに基づいて自身の考えを述べる、展開することが苦手なのではないでしょうか?この辺は山本七平氏が聖トマスの不信をあげて、日本人のコミュニケーション様式について鋭く分析説明されているのではないかと伺います。
ただし基本的な知識の獲得という意味では詰め込みでも何でも、反復学習が大事で、この点で日本の教育が悪いとは思いません。「温故知新」「守破離」は万国共通の教育の基本、イノベーションの基礎ではないでしょうか?
米国にお住まいなので、良くご存知と存じますが、アメリカでも子供に勉強させる層はそれこそ、「こんなに強制して大丈夫なの」と思うくらいの厳しさで勉強を強いているように思います。
日本と真反対で興味深いのは、こういう激しく競争、勉強する環境にある子供達のつらさ、心理的重圧についての話は、メディアにより表に出てくることは決してなく、常に底辺でまともな教育が受けられない話ばかりマスコミが取り上げることではないでしょうか?
あるいは日本と違って、エリートには同情の必要はないということかもしれませんね。
北村様はこの点についてどうお考えになりますか?
君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず。
現在の日本は「同ずる」のみで、「和して」はいないように思います。いわゆる「空気を読む」という状況は、和を尊んでいるのではなく、単に周囲に「同」じているだけです。
> あるいはカルトの教徒よろしく、主張を念仏のように唱えるのみで、異なる意見を受け止めて、それに基づいて自身の考えを述べる、展開することが苦手なのではないでしょうか?
ライシャワー氏は、 日本の文化でその時代の世界水準を抜いたものがふたつある。 その一つは日本建築で、 もう一つは鎌倉仏教であるといっていました。 「念仏」は鎌倉仏教の精華ののひとつです。 例えば、 浄土真宗の毎日のお勤めに使われる「正信偈.」は、 大乗仏教の浄土真宗にいたる歴史と教義を簡潔に親鸞がまとめたものです。 それをしばしばくちにしていても、 5年10年とたって、 この句の意味はこうだったのかと気が付くことがよくあります。
鎌倉仏教こそが、 日本人が外からの見解を受け入れてみずからの努力でそれを発展させたものです。 日蓮宗や浄土真宗も創生期にはキリスト教とおなじくカルト集団として扱われました。
引用した文はそれ自体にあてはまりませんか?
> は美徳にあらず
聖徳太子の生きた時代というのは、 権力と皇位をめぐる殺し合いの時代でした。 『和をもって貴しとなす』というのは、 殺し合いだけは止めてくれといった聖徳太子の悲痛な願いであったとおもいます。 太子の願いもむなしく、 その子の山背大兄王は殺され、 その後も、有馬皇子・大津皇子と皇位継承候補者が次々と殺されました。
聖徳太子(実在しなかったという説もありますが)は時代を抜きんでていたとおもいます。 したがって、「和をもって尊し」という言葉を軽々しく否定したくありません。
>「和をもって尊し」の時代は終りました。今後は、多様性と地域性を重視した教育政策が求められており、今や、「異」を唱える長所を真剣に考える時代ではないでしょうか?
これについては、異議ないです。そして、現状は、それから、ほど遠いことも。
問題は、今のシステムに、まず、蟻の一穴をあけるとすれば、それは、なんなのか?
文部省の指導要領を決める委員会で、こういったことを議論する? まず、問題を認識してるんだろうか?
文部省ではなくて、州レベルに教育の管轄を移す?(もう、20年このかた、地方分権は、進展がない)
あるいは、もっと、グローバルな敗戦(トヨタ、日産、ホンダが、外資に買収されるか、外へ出て行ってしまう)を体験するべきなのか?
ap09 様
御質問有難う御座いました。日米の違いを一言で定義する事は出来ませんが、以下、私の回答と言うより感想を述べさせて頂きます。
論議の仕方について「同調圧力」とは正に言い得て妙で、日本の雰囲気が良く判ります。米国でも罵倒と中傷の激しさは日本以上ですが、必ずそれに対抗する説得力のある論議が出る事と個人中傷をアンフェアーだとして嫌う処が日本と違うところでしょうか。
米国でも反復学習を重視していますが、何を反復練習するかは各人が決める場合が多く、それが逆に、米国の貧困街での教育の大問題になっています。然し、読み書き算盤が苦手でも、スポーツや芸能で大成功した人達まで、後輩には口を揃えて「反復練習」と「努力」が成功の秘訣だと強調しています。
続き、
勉強については、飛びぬけた才能の持ち主は、自分で環境を作り出すため、どこの学校に行くかは余り関係ないようです。親の圧力で猛勉しているのは、インド、中国、韓国などアジアからの移民に多く見られる特徴の様に思えます。優秀と言えば東大と答が返る日本ですが、受験課目が多すぎます。これこそ「Man of all trades,master of none (器用貧乏)養成所」のような気がします。ノーベル賞の受賞者に意外と首席卒業生がいないこともこの証左かもしれません。「一芸に秀でる」とは、最早日本の言い習わしではありません。機会平等を目標に常に改善を心がける米国では、エリートになるのも自分の力でなる事が多く、日本に比べて「立派な人と、偉い人」が重なっている場合が多いと思います。社会が期待するエリートの責任も日本より遥かに大きく、これに応えている限りエリートは尊敬される事はあってもねたまれる事は少ないのが米国の良い処です。
回答が永くなり申し訳ありません。
私も東大で器用貧乏な人はたくさんみました。しかし、飛びぬけた切れ味の学生の多くが東大と京大に集まり、地方医大とかでも少なく、その中で少なくない人が若くして頭角を現していたことは確かです。慶應とかの附属には、たまにそのクラスがいましたが、そういう附属上がりの大秀才は、東大の大秀才以上に司法試験や公認会計士試験勉強に特化し教養の幅も乏しいのが目に付きました。いま世界的に、大学の財力とネットワークを背景とした別格の大秀才を巡る有名大学間の争奪戦が始まっています。東大が没落するならば、大秀才が学部で海外に行くことが第一の要因でしょう。他のアジア諸国では、すでにその兆しがあります。その多くは、この異常な同調圧力と減点主義ゆえです。パラダイムが違う人を納得させることは、ほとんどの場合は徒労で終わるのが分かっているからです。