東電の値上げの根拠と読売社説には呆れはてた

大西 宏

東電の大口顧客への料金値上げに関しては「東電文学」とも揶揄され批判が集中しました。さらに東電の大口顧客に対する値上げの根拠が、原油価格の高騰と、前回の料金改定時の為替レート107円を適用したものだということが、昨日の報道ステーション・サンデーにでた東電の法人営業部長の執行役員の方が明かしました。どう考えても納得できない説明です。そこには、原発の発電コストがいまだに明らかでないことと同じく、その背景には、ご都合主義で、またいい加減な「どんぶり勘定」がまかりとおる経営体質が透けて見えます。
また読売新聞が常識を疑わせる社説を昨日書いています。「過剰な経営介入で民間活力を奪うのは本末転倒だ。国による短兵急な経営支配は避けるべきだ」ということですが、地域独占で染み付いた官僚体質、また「どんぶり勘定」をやっている東電に「民間活力」を期待する読売の発想にも強い違和感を覚えます。
東電公的資金 国の過剰介入は避けるべきだ : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞) :


さて、なぜ円安時代の為替レートなのでしょうか。番組を見ていた人は呆れ返ったと思います。そこには、厚労省の官僚が年金問題で出生率を作文してきたこと、また国土交通省が、道路ありき、新幹線ありきで、ありえない需要予測の作文を行なってきた霞が関の官僚の体質とまったく同じご都合主義を感じます。

また、なぜ原油価格なのでしょうか。東電の火力発電の約7割、全発電量の約4割が天然ガスによるものです。しかも、天然ガスはアメリカの「シェールガス革命」の影響で、ニューヨークの先物価格でも、価格が前年から4割から半値程度も落ちています。しかも天然ガスは余っています。それについても、釈然としないと感じた人も多かったのではないでしょうか。

どうして、火力発電の主役である天然ガスの市場価格が下がっているのに原油価格の高騰を理由にあげたことでも、その背景にも経営の特殊性を感じます。

日本は、実際に常識を外れた世界一高い価格で天然ガスを購入しています。普通の競争にさらされている民間企業では考えられないことです。それは安定的な天然ガスを長期的に確保するために、日本が輸入する天然ガスは原油価格と連動する方式で長期契約しているからです。だから、状況が大きく変化したにもかかわらず、その変化に対応した機動的な購入方法の切り替えができません。

その原因には、電力にしてもガスにしても地域独占で競争がなく、しかも原材料コストを安易に価格に転嫁できるために、コストを意識する必要がないことがあるのでしょう。またコストに関して、原発コストを安く見せるために、ほんとうのコストを潜りこませ続けてきたために「どんぶり勘定」の体質が定着してしまったことも、コスト意識を弱めてきたのだと思えます。「どんぶり勘定」ではコスト意識はもてません。

日航を再建させた京セラのアメーバ経営なら、できるだけ小さな組織単位で月次決算を行い、組織の隅々にまで採算意識をもたせます。いやアメーバ経営でなくとも、事業別に採算性を追求するのはいまやあたりまえです。そうでなければ投資家にとっても企業の実態がわかりません。

もし、独占企業でなく、競争にさらされていれば、天然ガスの市場の変化に機敏に反応したでしょうが、競争が実質的になく、しかも「どんぶり勘定」をつづけてきた東電では、コストを抑える動機は働きません。さらに原発比率を高める道をまっしぐらに目指していたために、天然ガスによる発電コストは軽視してきたとも考えられます。

読売新聞社説はこうも書いています。

事業計画には、火力発電所売却や、発電、送配電など事業別の社内カンパニー制導入も盛り込まれる方向という。しかし、発電所の切り売りや組織の分断は、電力の一貫供給体制を綻ばせ、事業基盤の強化に逆行する恐れもある。

つまり、今日の激しく環境変化する時代に、親方日の丸の巨艦主義、経営のどんぶり勘定を続けろというのです。読売新聞がたとえ、不透明な経営によって破綻しても、国民にとっては選択肢のひとつに過ぎないので、国民は損失を受けませんが、インフラ企業がそうなってしまうと国民も産業界も困るのです。

電力自由化の促進は、報道ステーション・サンデーにでた東電の法人営業部長のかたも、海外ではうまくいっているとし、それを認める発言をされていました。電力会社はかつて経産省が電力自由化を本格化させようと動いたときに、電力会社もそれに備え、電力自由化については充分に研究しており、実は電力会社のなかには電力自由化に関する知見をもった人材は決して少なくないのです。
だから自由化について、柔軟な発言となったのでしょう。読売新聞も責任のあるジャーナリズムなら、東電の経営者ではなく、一度そういった電力会社内部の電力自由化に知見を持った専門家の意見を聞いてみればと感じます。

経営現場を知らない読売新聞が、自由化への道について、なんら根拠なく「事業基盤の強化」に逆行することと異を唱えるの、電力ムラの強力なプロパガンダとなってきた読売新聞の歴史を考えれば東電をなんとしても守りたいという本音のようにも見えてきます。

原発が再稼働できない状況、たとえ再稼働したとしても、すべてを稼働させることができない状況は、日本のエネルギー問題に関しては差し迫った課題です。読売新聞社説は、暗にその課題にたいする対策を否定しているのですが、ここでも電力ムラの立場に立った発言だと感じてしまいます。

東電の組織再編を突破口に、発送電分離など電力改革に道を開きたいとする、経産省などの思惑がうかがえる。業界全体にかかわるテーマは東電問題と切り離し、じっくり議論すべきだ。

現実問題として、原発依存を続けることも、ましてや原発推進は、国民のコンセンサスを得ることはもはやできません。いかに丁寧に説明しようが、国民感情が受け入れないことを考えると原発が再稼働したとしても極めて限定的なものになると思います。そうなると、価格が安く、環境にも悪影響の少ない天然ガス利用や、さらにエネルギーの安全保障を考えると、再生可能な自然エネルギー利用を促進する具体的な方法が求められますが、それを地域独占で官僚化した組織に委ねるのは非現実的です。

東電の「民間活力」に期待するのではなく、他の「民間活力」を新しい風として取り込み、電力事業を活性化させる方策がもとめられます。それには参入の障壁を取り除き、参入を促進し、互いにイノベーションを競い合えるようにすることがもっとも重要な鍵を握っていることはいうまでもありません。電力自由化に反対というなら、そういった条件を整える道があれば示してもらいたいものです。日本の新聞社も好き勝手を「言うだけ番長」かとなります。

会見を終え、頭を下げたそのまま、机の上の資料に手をやる無神経で、誠意の欠けた経営者に率いられた東電に、国民や産業にとって重要なインフラのなにを任せようと言うのでしょうか。