「古池や蛙飛び込む水の音」というふうに、江戸時代の俳諧を横書きにすると、ちょっと妙である。いわずと知れた芭蕉の有名な句だが。
この句、まさか、蛙が池に飛び込むさまを目で見て詠んだものではないだろう。もしもそうなら、あまりにも平板な、つまらない描写の句になってしまう。そうではなくて、「音」で止めてあるのだから、音が主役であることは明白で、視覚でとらえた蛙ではなくて、聴覚でとらえた蛙を詠んだものである。ならば、実は、蛙かどうかもわからない。原因不明の音を詠んだのだ。
この句、これだけでは、昼間か夜かわからない。しかし、真っ暗闇を想定するほうがいい。実際、真っ暗闇に佇んで、原因不明の音を聞くときに感じる不安は、相当に大きなものである。真っ暗闇でなくとも、静寂は必要である。静寂でなければ、小石が落ちる程度の小さな水音が、心に波紋を起こすことはない。
不安の原因の解明は、実は、不安の解消につながる。不安と、不安の解消までの微妙な心の動き、しかも、本当に蛙が原因かどうかは確認し得ない以上、背景に薄く漂い続ける不安、この句は、そうした不安を詠んだものと解釈してはじめて詩になる。私の趣味からいえば、音が心に起こしたものは、ハイデガー的な存在の不安でなければならない、音は存在の声でなければならない。
ところで、私は、芭蕉の句を論じるために、本稿を書き始めたのではない。原因不明の不安と、原因の合理化による不安の解消、この一連の心の働きと、資産運用の関連を論じたかったのだ。投資の合理的判断のなかにも、答えを見出し得ない不安、語り得ない不安というものがある。例えば、ユーロの崩壊のような、あるいは、日本の国債の暴落のような。
ところで、価格変動の不安は大きいにもかかわらず、価格変動は合理的には論じ得ないのだ。なぜなら、合理的な資産運用で語り得るのは価値判断だけであって、価格予想はできないからである。しかし、現実に世の中に氾濫しているのは、価格変動を合理化するような評論と価格予想ばかりである。為替や株価や金利の変動は、膨大な数の取引参加者の勝手な思惑による取引の集積、その集積の結果にすぎない。本当は、それらの価格変動を特定の原因に帰することなど、決して、できはしないし、合理的予測なども成り立ち得ないのである。
一方で、価格変動のもたらす不安に対しては、特に、大きな価格変動がもたらす大きな不安に対しては、誰しも、語ることによる合理化への強い欲求をもつはずだ。しかし、語ることで、何か新しいものが付け加わるだろうか。語ることで得られるものは、何かが説明されたと思う錯覚だけではないのか。安直な合理化は、安直な安心をもたらすかもしれないが、逆に、本質的な不安を隠蔽することになりかねない。
語り得ないものは、受け入れるしかない。語り得ないものを語ろうとする努力は、実は、受け入れることを拒否することになり、結果として、直視を避けることになる。では、語り得ることは何か。外延すら把握し得ない巨大な市場全体の価格変動ではなくて、個々の小さな具体的な投資対象の価値分析だけである。語り得ないものを語ろうとする合理化の努力は、本当の合理的投資判断にはなり得ない。合理的に語り得るのは、個別の投資対象に関する価値判断だけなのだ。
不安を感じない強さという究極の境地があり得る。要は、合理化と確信とは違うのだ。「ぽちゃっ」という音を、詩的な連想から蛙に帰することは、一つの合理化である。しかし、水音を聞き分ける徹底した鍛錬を経た結果、「ぽちゃっ」という音を蛙の飛び込む音に帰するのは、確信である。
個別具体的な投資対象の価値分析にかかわる鍛錬、熟練、修練、徹底した財務分析の反復、職人的な修行は、価値判断の確信を支えるものとなる。その確信が、市場価格変動の不安を跳ね除ける力になるのだ。
資産運用の基本は、個別具体的な投資対象の価値判断分析である。そこから得られる確信が、不安に基づく心理的行動への傾きを制止し、価格変動に惑わされない運用の一貫性を支えるのだ。そして、その確信は、知的操作から生まれるのではなく、地道な分析の修練からしか生まれない。
詩は言葉の遊びではない。詩が詩であるためには、存在の不安を直視する芸術家としての力が必要なのである。もちろん、資産運用は言葉の遊びではない。資産運用が資産運用であるためには、世の中の雑音(価格変動を合理化する評論)を無視し、自己の価値判断に対する確信を貫く、熟練した専門家(プロフェッショナル)としての力が必要なのである。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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