アンチグローバルマッチョ宣言2 ~やっぱし政治家になりたい~ --- うさみ のりや

アゴラ

昨日東京のとある店でコンテンツ業界の怪しげな面々と鍋を食っていたら、すぐ隣でタムコーこと田村耕太郎氏も鍋を食べていらっしゃいまして、不思議なご縁を一方的に感じた次第です。もちろん挨拶はしていません(笑)ブログ読者の方はご案内の通り僕はあんまり彼の思想が好きではないのですが、その辺の話をこれを機にもう一度してみようかなと思います。

僕が彼の言論(=グローバルマッチョ思想)に対して批判じみたことを言うようになったのは、彼のような人に影響されて「世界に飛び出して多様性を味わって、世界的なグローバル企業入って切磋琢磨してきたけどちっとも充実感が無いし、むしろ人生どうして良いか分からない」なんて言っている人達の相談に乗っているうちに興味がわいて、2、3冊彼の書いた本読んでみたら「朝早く起きろ」とか「筋トレしろ」とか「世界に飛び出ろ」とか「英語マスターしろ」とか「本を読め」とか「もっと頑張れ」とか言う一世代前の体育教師の小言のようなことが書いてあって、そのくせ真反対に「空気読むな」とか「はみ出ろ」とか言っててなんかムカついた、っというしょうもないキッカケです。

彼の主張の根本というのは「将来のために、今を犠牲にして漫然と頑張れば報われる」という根性主義一点につきると思うんですよ。そしてそれは彼自信の「オレは頑張ったから成功した」という経験論に根ざしている。でも彼自身の成功というのはとても恵まれた環境に根ざしている部分が大きいように端からは見えるんですよね、嫁の親父が地元の名士ですしね。運も含めて実力だし、それ自体は批判すべきではないけれど、ただそういう自分の恵まれた環境を説明せずに自分の経験論に根ざした理屈をオールマイティな成功メソッドかのように言うのは、無責任に思えるんです。確かにあなたは上手く行ったけど、それはたまたま外の人があなたが活躍できる環境を用意してくれたからでしょ、と。それを言わずに若者を駆り立てるのはある意味マルチ、ネットワークビジネスに近い。

これはとても大事な点なのだけれど、一生懸命頑張って自分のスキルを積み重ねて成功をつかみ取る、っていうアプローチには「頑張って実力つければ他人が自分が活躍できる場を用意してくれる」という暗黙の大前提があるんですよね。「他人が提供してくれるいつかの機会」を期待して、意識を、先へ先へ、外へ外へ、高みへ高みへ、と向けて貪欲に学んで能力をつけようとする。今その瞬間の辛さや楽しみと向き合わずに勉強して鍛えて、将来のために人生を保留する。

マッチョ

でも裏返しで、グローバルマッチョを目指して挫折した人っていうのは「こんなに頑張ったのに、世間はオレに活躍できる場を与えてくれない」とか「こんなに頑張ったのに、自分のやりたいことが出来ない」とかそういった悩みを持つことになる。でもよく考えればそりゃ当たり前だよね、元々競争って優勝劣敗だし、そもそも自分でリスク張らずに人に依存して自分のやりたいことを実現しようとするなんて都合良すぎる。頑張れば夢が叶うだとか成功するだとかいった話ってのは、努力する側の勝手な理屈にすぎなくて、使う側に取ってみればどうでも良い話だからね。

そしてそれは2年前くらいの僕自身にも当てはまる話なんですよね。一生懸命勉強して、東大入って、国家公務員試験受かって、官僚になって、寝る間も惜しんで仕事して、体調すら崩しかけて、その結果が壮絶な公務員バッシングと給与削減。「なんでこんなに頑張ったのに、オレはこんな目に遭わなければいけないんだ」そんな風に思ったら、留学のための英語の勉強とか耐え忍んで仕事することとかバカバカしくなってきて、そもそも我慢して頑張りつづけるっていうアプローチ自体に疑念を抱くようになった。ったら今この瞬間の辛さ楽しみに向き合って、何でも出来ることから始めようと思って、ブログなんか始めたんだよね。それくらいしか当時の自分に出来ること無かったからね。ネットは弱者の味方。

僕自身は小さな頃からずっと三国志だとか史記だとか好きで、大学時代にモンテスキューとかロックとかルソーとか美濃部達吉とかの本読んで感動して、ずっと民主主義と政治に憧れてて、んでもって自分ではなく他人の力・他人の作ったシステムの中でその憧れを果たそうとして官僚になった。でも「社会保障のためなら増税も仕方ないよね」「社会保障のためなら経済成長しなきゃね」「社会保障のためならルールをねじ曲げても仕方ないよね」っていう「社会保障全体主義」に耐えきれなくなって、霞ヶ関を離れることにした。

退職して一年経って自分を冷静に見られるようになって、思うことは自分はこの社会保障全体主義を打ち破れるような政治家になりたいってことです。このままじゃどう頑張ってもこの国、高齢者に押しつぶされてぶっ壊れちゃうからね。そのためには既存政党や組織に頼るわけにはいかないし、ちゃんと独立自尊で自分が食べていける術を身につけつつ、政治家になったら具体的に何が出来るか考え勉強している、っていうのが今のステイタスってところでしょうか。

そんなわけでちょっと話があっちこっち行きましたが、「将来の『誰かが与えてくれる機会』のために人生を保留してスキルをつける」っていうアプローチを 取り続けて成功したのがタムコー氏でグローバルマッチョの教祖となり、それでちょっとした挫折を味わった私はアンチグローバルマッチョ化してささやかな抵抗を繰りひろげているという次第です。結局人の思想というのは経験論のくびきから逃れられないというのが私の思うところでして、これを一言でまとめれば元も子もないようですが

 「オレは人生を保留するグローバルマッチョな生き方が死ぬほど嫌い」

ということに尽きるわけです。彼らの言っていることも理解できるんですけどね、なんせ私も昔はグローバルマッチョ目指してましたし。

ではでは今回はこの辺で。


編集部より:このブログは「うさみのりやのブログ」2013年10月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はうさみのりやのブログをご覧ください。