いま霞ヶ関や日本橋では、本書がよく読まれているという。初版は1963年だが、ヒトラーの出てくる前からずっとワイマール共和国の生い立ちを追いかけた日本語の本は少ない。ワイマール憲法を美化して「ナチスが理想の憲法を破壊した」という類の話が多い中で、著者(林健太郎)は冷静に憲法の欠陥を分析している。
第一の欠陥は、ワイマール憲法が1918年のドイツ革命によって生まれた右派(帝政派)と左派(社民)の妥協の産物だったことである。その制定の中心になって初期の政権をになったのは、「ワイマール連合」と呼ばれた社民党・中央党・民主党の三党だった。中でも最大勢力は社民党だったが、社会主義に重点を置く左派は独立社民党として分派を形成し、民主主義に重点を置く右派との対立が続いた。
ワイマール憲法は帝政を廃止して共和制にし、主権在民の原則のもとで比例代表制による議院内閣制と大統領制を併用するものだったが、右派は共和制を廃止して帝政を復活しようとする一方、左派は「ワイマール憲法には社会主義の規定が足りない」として企業の国有化を求めた。どちらもワイマール体制の打倒を求めており、憲法を本気で守ろうという勢力は少なかった。
第二の欠陥は、このように政治の指導力が弱かったため、軍部の実権が強かったことだ。軍部はヴェルサイユ条約で軍備が大幅に制限されたことに不満をもってクーデタを起こし、巨額の賠償による貧困で極左もたびたび暴動を起こした。こうした左右の暴動を抑えられるのは正規軍しかないので、軍を掌握している国防相や参謀本部の影響力が強まり、彼らが政権を実質的に支配するようになった。
第三の欠陥は、比例代表制で小党分立が続いたため単独過半数をとる政党がなく、左右対立の中で不安定な政権が続いたことだ。右派と左派の妥協で首相が決まり、それが壊れると政権が交代し、1919年の憲法制定から33年にヒトラーが首相になってワイマール体制が終わる15年間に13人の首相が交代した。末期には左右対立の激化で首相指名もできなくなったため、大統領が首相を指名する大統領内閣になり、議院内閣制が機能しなくなった。
特に1929年の世界大恐慌のあとは左派の勢力が強まり、共産党はコミンテルンの方針に従って社民党を社会ファシズムと規定し、政権と対決する極左的な方針をとった。これに警戒心を抱いた資本家が、共産党よりヒトラーのほうがましだと考えて資金を提供したため、ナチスが急速に台頭した。ヒトラーは、麻生太郎氏が誤解しているように議会で過半数をとって首相になったのではなく、こうした混乱の中で軍部の支持によって大統領内閣の首相に指名されたのだ。
日本の政権が不安定なことを「ワイマール化」という人がいるが、この経緯をみると類似点は多くない。政権党に憲法を守る気がなく、首相がコロコロ変わる点は同じだが、軍部の力は無に等しく、左派の影響力もほとんどない。ただ著者の指摘するワイマール体制の根本的な弱点は「ドイツ国民が帝政に慣れて、みずから国家を運営する意識に欠けていた」ことだった。
彼らが敗戦によって突然、民主主義と政党政治という新しい実践を課せられたとき、彼らはそれをいかに駆使するかに迷った。そして政党政治がいたずらに混乱をもたらしたように見えたとき、彼らは彼らの手にゆだねられた共和国をむしろ重荷と感ずるようになり、上からの強力な支配に救いを求める人が増えたのである。(p.206)
民主主義や政党政治が根づいていないのは同じだが、幸か不幸か日本では「上からの強力な支配」が出てこない。ヴェルサイユ体制のようなわかりやすい敵もないため、日銀をユダヤ人のような悪役に仕立て、ヒトラーのようにバラマキ財政で「景気回復」をはかる人々もいるが、彼らの能力はとてもヒトラーには及ばない。
しかし財政の「時限爆弾」が爆発すると、1929年以降のドイツのような経済状況になるかもしれない。ワイマールと日本に共通しているのは、経済問題は最終的には政治の問題であり、政治が何も決めないと経済問題は解決しないということだ。この点では、日本にも「おれがすべて決める」というヒトラーのような人物が出てくる素地がある。