日本サラリーマンの「奴隷化」は「責任分担」の明確化で改めよ --- 佐藤 正幸

アゴラ

『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画がある。東京タワーの建設が始まる頃、東京オリンピックが日本を湧かせたあの日。人々は貧しかったけれど、必死に生きていた。たばこ屋のおばちゃんにお節介をやかれ、金の卵たちは東京に出てきて故郷を思いながら必死に働いていた。ああなんていい時代だったんだ。勤勉は尊い。この頃の日本人は素晴らしかった。という話だ。

筆者自身はこの映画は好きでよく観るし、三丁目の悪ガキのような少年時代を送った筆者にとってもいい時代だったのではないかなと思う。

しかし、問題はここからだ。


筆者は過日、日本サラリーマンの「奴隷的」労働環境を問うという文章を書かせていただいた。なぜ日本人サラリーマンは「奴隷的」労働環境の中で仕事をしなければならなくなったのか改めてサラリーマン諸氏と意見交換した。その結果、日本のサラリーマンの「奴隷的」労働環境を今日まで生きながらえさせてきたのはこの三丁目の亡霊なのではないかと思ったのだ。

三丁目の夕日の時代、高度経済成長期は欧米に追いつけ、追い越せ。勤勉こそ日本人の美しさであり強さなのだ。土日も構わず働け。努力した分だけ給料が上がるぞという時代であった。この時代を経験している人たち、つまり今の会社のマネジメントというのは少なからずこういうマインドを持っている。自分たちの時代の成功体験は美化され、今のサラリーマンたちにも同じことを求めようとする。

その結果、これだけライフスタイルが多様化した今日でさえ、サラリーマンの働き方は当時とちっとも変わらず化石のように進化を止めてきた。

ではどうすればいいのか。

高度経済成長期のサラリーマンはスタイルを変えるにはまず、その時代に働いていたマネジメントの意識改革から始めなくてはいけない。そもそもこのご老人たちは時代錯誤も甚だしく、時代に合わせたシステムを会社が作っても余計な鶴の一声で有名無実化する。

フレックスタイムなのに役員の「だらしない!」という鶴の一声で全員しかたなく9時に出社している。育児休暇はあるのに「男は働くことが人生だ」という役員の声で休暇など取得できる雰囲気ではない。など、どの業界にも高度経済成長期の亡霊が彷徨っている。時代に合わせてシステムを変えられない人間がマネジメントにいることそのものが問題なのだが、それが分からないようならご退出願うのも1つの方法だろう。

さらにサラリーマンのライフスタイルが未だに「奴隷的」に時間に拘束される背景には、不明確な責任分担にある。誰がどこまでの仕事をするか明確に決まっていないから、色んなレベルの人が枠を越えて仕事をしている。最悪なのは、ジョブローテーションで全くの門外漢が他部署からきて部長になり、細かいことにまで口を出してくることだ。

仕事のできない人間や門外漢は細かいことに口出ししてさも仕事をしているように見せる。彼らの常套手段だ。結果、担当者レベルの話でもすぐに口を出してきて誰が担当者なのか分からなくなる。本来上司というのは部署やチームの目標を定め、それに従って各員がどういう進捗状況なのかをチェックする存在であるはずだ。

にも関わらず、細かいことに担当者レベルでの話にも口を挟み、俺の時代はなーという時代錯誤の昔話を始める。この時点で、誰が責任者なのかもうぐちゃぐちゃだ。おそらく彼もその上の、高度経済成長世代のご高説を賜りながら責任分担など意識することない、ぐちゃぐちゃの仕事の進め方を「仕事のやりかた」だと習ったのだろう。

当然、責任分担が曖昧だと介入してきた上司のための仕事も増える。なんでこういう進め方をしているんだといった細かい話まで説明しなければならなくなる。仕事のための仕事をすることになる。

筆者がサラリーマン時代在籍したのは、日本では有数の大企業だったが、情報共有の名の下、責任分担などまるでなかった。筆者の部署の部長は意志薄弱で、その上の本部長に相談しないと話が進まない。本来は自分で決めるような話を上に持っていくわ、担当者レベルでの話に首を突っ込んでくるわ、仕事のための仕事で業務量が2倍、3倍と膨らんでゆくわけだ。

責任分担を明確にし、こうした雪だるま式に増えてゆく仕事量を減らす努力をすれば少しは早く帰ることができ心に余裕も生まれるだろう。「奴隷的」働き方からの解放、第一歩だ。

実際に、欧米では新しく会社を設立するにあたってはJob Descreption(職務内容記述)といって、担当者レベルまで細かく業務の内容を定める。当然、それに応じた責任と権利が生じるわけだ。上司が担当者の仕事の進め方に口を挟んでくるなどあり得ない話なのだ。

こういう主要先進国では当たり前に行われている責任分担を明確にすることで、三丁目の亡霊を除霊する作業が必要と考える。つまり働き方を先進国モデルにするということだ。

自身の健康や災害よりも会社が優先するものだとはとても思えない。サラリーマンあっての会社であり、社会だ。高度経済成長は終わったのだ。いい加減、三丁目の幻想は捨て、先進国としての働き方に気付いてもよいのではないだろうか。

佐藤 正幸
World Review通信アフリカ情報局 局長
アフリカ料理研究家、元内閣府大臣政務官秘書、衆議院議員秘書