安倍首相の、スイス、ダボスで開催中のWorld Economic Forumでの発言が話題になっているとのこと。
現在の日中関係の緊張を、第一次世界大戦前夜のヨーロッパに比したことが問題視されているらしい。
池田さんのブログ・エントリーや、アゴラでの站谷 幸一さんのエントリーなどを拝読すると、これを失言ととらえておられるようだが、私はそうは思わない。
今年、2014年は第一次世界大戦の開戦から100周年。現在の世界状勢を往事と比較するということは、欧米のジャーナリズムでは昨年末以来、よく目にするアングルである。個人の印象の範囲では、エコノミストが去年のクリスマス号でとりあげていたのが最初だったように記憶してる。しかしもっとも深くこのテーマを掘り下げていたのはThe Brookings Institutionのサイトで発表されていた、イギリスの歴史学者マーガレット・マクミランのエッセーだろう。
安倍首相の発言はこうしたグローバルな文脈を踏まえてのものだ。
これを失言ととらえる背景には、次のような事情があると思われる。
つまりいままで公の場で、日中のリーダーが直接お互いを意識した上で、安全保障上の国際問題を明言することがなかったということだ。彼らの発言は外交官僚たちによって厳しくチェックされ、極限までに「無菌」状態な台本からしか発言することが許されない。こうした従来の「しきたり」を踏まえれば、今回の発言はたしかに一歩以上踏み込んだ感がある。
しかし、そもそも今回のこうした発言が首相の近辺からでてくるというのは、安倍首相が自らピックした内閣審議官/参与その他の人材を自らの外交ブレーンとして利用し、外務省と一定の距離をおいたスタンスを保持しているからだろう。またいっそう推し量れば、今回の発言を失言として世論に定着させたいと思っているグループは、そうした首相側近からイニシアティブを取り戻したいと考えている人たちがそのコアにいると見てあたらずとも遠からずではないだろうか。
こうした日本国内のお家事情とは別に、発言の本旨に関していえば、英語の表現で「部屋のそこにいる象(an elephant in the room)」ということばがある。皆がそこにいることをしっていながら、これを直接言及しない状態のことを指して使う表現だ。
現在の世界状勢で擡頭する中國とその周辺の国々の間の領土領海をめぐる緊張が、安全保障上の一番の課題であることは自明の理。まさに部屋の中央に居座った象である。したがってこれに対して、そのような周辺国の筆頭、日本の首相が、世界の人々たちとそうした不安を共有していることを表明することが、危機感をあおるということにはならないと、私は思う。
実際のところ、ダボスには「日中戦争は不可避。そして中國はこれに必ず勝利する。」と明言して、同席者たちをドン引きさせている中國人もいるのだ。こうした現実の対比に日が当たるのも、今回の首相発言の功績とも言えるだろう。
しょせん政治家は自らの言葉によって立ち、自らの言葉によって倒れていくものだ。日本の政治家の多くは、その内容を理解しているのかどうかもアヤフヤな、官僚の英作文を棒読みするだけのパフォーマンスを「記者会見」とよんで、外国人記者の失笑をかってるのだ。もうそろそろ、自らの発言に直接責任を持ってもらう方向に動いてもいいだろう。
最後に第一次世界大戦との比較ということに関して。ドイツ統一の立役者、ビスマルクは1878年のベルリン会議でこう言ったという。
「今、ヨーロッパは火薬のつまった樽のようなもので、諸国のリーダーたちは弾薬庫でタバコに火をつけているに等しい。ほんのわずかな火種が爆発を引き起こすことになるだろう。私にはその爆発がいつ起るか見当もつかないが、どこで起るかはわかっている。バルカン半島で起る、まったくバカげた事件がそれを引き起こすだろう。」
以前もいったが、日本の政治家は安易なポピュリズムにおちいることなく、細心な言動を心がけてもらいたい。今回の発言を受けてエコノミスト紙はハーヴァード大の政治学者、ジョゼフ・ナイの次の言葉を引用している。
「戦争が不可避であったことはない。ただ、不可避であると信じることが戦争の原因となりうる。」
おまけ
第一次世界大戦が背景となった、イギリスの人気コメディー番組「ブラックアダー」のセリフ
「大尉どの。なんでこの戦争は始まったのでしょうか。」
「戦争を避けるために、ふたつの大同盟が出現した。一方には我々(大英帝国)、フランス、そしてロシア。もう一方にはドイツとオーストリア・ハンガリー帝国。つまり巨大な兵力を擁した二大同盟が対峙するかぎり、お互いが抑止力となって戦争は起らないと考えられたのだ。」
「しかし、いま現に戦争中ですが...」
「うむ、この考えにはひとつ欠点があった。」
「その欠点とは?」
「でたらめだったのさ。」