▲今年は伝統メディアと権力の関係が特に問われた(アゴラ編集部)
伝統メディアは政権との距離感を
細々と続けていた私のブログが、言論プラットフォーム・アゴラに12月から転載されるようになって、とにかく驚きました。訪問者が多いときはなんとそれまでの10倍、少ない時でも2、3倍に急増したからです。ネットのすごさを体感しながら、メディアの傾向を考えてみました。
2年半ほど前から本拠に使っているブログサイトは、登録者数が230万にものぼります。投稿できるジャンルがあまりにも多岐にわたるため、私が関心を持つテーマは埋没してしまい、アクセス数が伸びなかったのでしょう。それに対して、アゴラは政治、経済、メディア論など、テーマがはっきりしており、訪問者の目にとまるチャンスが増えるのでしょう。
先日、言論の自由との関係を論じながら、「産経はこんな記事をもう書くな」(12月19日)をアップし、アゴラにも載りました。訪問者数は突然、その日、10倍に跳ね上がり、コメントを寄せてきた方もこれまで最多にのぼりました。辛口のきついコメントがほとんどで、同感という人のコメントは1人くらいでしょうか。もっぱら批判が集中的に押し寄せるのはネットの特徴でしょうね。ずばり本音を聞ける半面、玉石混淆で取捨選択が必要です。
安倍首相が産経を招くとは
産経の話を続けますと、無罪判決を受けた記者(元ソウル支局長)が産経の社長とともに、安倍首相に官邸に招かれたと、新聞記事に載っていました。首相は恐らく労をねぎらったのでしょう。異例のことです。首相がそこまでやるのですかねえ。なんだ、要するに言論の自由という問題というより、やっぱり政治問題だったということを証明しているのではないか。
在宅起訴され、帰国もしばらく禁止された記者は心身ともに疲労困憊だったでしょう。そのことには同情するものの、問題の記事は「うわさ」と断りながらも、女性大統領の男女関係を連想させる週刊誌的な内容でした。「言論の自由を守る」を論じる際のテーマにしては、次元が違う。
安倍官邸にとって、産経はもっとも親近感を持てている新聞です。安倍政権がそう思うのは自由にしても、新聞ジャーナリズムと政権との間にはきちんと距離が必要です。そうでないと中立的な立場から政治を批判したり、問題提起をしたりできません。政権との距離という点では、首相の消息欄に、「新聞などメディアのトップと会食」がよく載ります。メディアにとって取材は重要です。それが目的ならば、取材の時間をとってもらえばいいのです。首相側が特定の会食相手を選別しているようで、それに応じるメディアは政権との近さを明らかにしているようなものです。
批判と否定を混同する新聞
新聞界が政権寄りと反政権側に真っ二つに割れています。政権寄りの新聞は「政権批判が政権否定につながる。だから批判も自粛しなければ」と、思っているようですね。新聞を読んでいても、どこに問題が潜んでいるのかよく分りません。一方、反政権の新聞は「政権批判を政権否定につなげたい」との意識が過剰で、政権は問題だらけとなります。ジャーナリズムとしては、両方とも間違いです。新聞離れを原因を自ら作っているようなものです。「批判と否定」を混同してなりません。
その関連で触れると、TBS系NEWS23のキャスターかコメンテーターとかの岸井成格氏の番組降板が明らかになりました。「安保法案の廃案に向け、メディアとして、声を上げ続けるべきだ」(9月)との発言が問題になったとされます。一識者が「廃案」と主張するのは自由であっても、メディア側にいる人間が「メディアとして廃案に」と主張するのはどうでしょうか。社説で「廃案に」と主張できる新聞と、公共の電波の割り当てを受けるテレビとは、メディアとしての性格は違います。
テレビ朝日の古舘伊知郎氏も報道ステーションを降ります。天皇誕生日の番組で、天皇家の平和に対する思いを延々と伝えていました。天皇家の平和に対する贖罪の意識は明らかにせよ、これほどまでに「反戦平和」と結びつけるとはねえ、ですね。報道番組による天皇の「政治利用」の懸念が頭に浮かびました。政治目的のために天皇を利用してはならないという点では、政治もメディアも同じ立場にいるはずです。
中村 仁
読売新聞で長く経済記者として、財務省、経産省、日銀などを担当、ワシントン特派員も経験。その後、中央公論新社、読売新聞大阪本社社長を歴任した。2013年の退職を契機にブログ活動を開始、経済、政治、社会問題に対する考え方を、メディア論を交えて発言する。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2015年12月27日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた中村氏に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。