オリンピック・・・1964 againを超えて

上山 信一

SFCは今日から新学期です。秋学期は「経営戦略」の授業を教えます。高校を卒業して半年ばかりの若者に企業の経営戦略を教えるのは大人相手よりもチャレンジングです。今日はオフィスグリコやディズニーなどのビジネスモデルの例を解説しました。みんな目を丸くします(そんなこと、考えたことない)。だが若い子たちの吸収力は素晴らしい。最初はPLとBSの区別すら知らない学生たちが3か月もするとM&Aのレポートを書いてきます。中には目から鱗の業界再編のアイディアを提案する子もいます。

閑話休題。さて、ビジネスモデルといえば例のオリンピックはどうなのでしょう?

公的資金を調達

IOCは国連機関ではありません。あくまで私的法人です(スイス法)。しかし加盟国は200を超え、公的色彩を帯びています。各大会の資金の過半も地元の自治体や政府が出します。東京の場合、組織委員会がスポンサーや放送権料で得る資金は約5千億円。仮に1兆かかるとすると半分が、また2兆かかるとしたら4分の3が政府や自治体の負担となります。

そこまでして誘致するメリットは何でしょう。国威発揚、都市開発など途上国の場合はわかりやすい。1964年大会もそうでした。しかし、2020大会はそうはいかないでしょう。何のためにやるのでしょう?湾岸地域の開発が進み、不動産市場が活況を呈しているのは結構なことです。しかし、問題は2020年以降です。あと4年で、東京と日本に「ダイバーシティ」「スマートシティ」「セーフシティ」をどう実現するか。それをこれから描いていく必要があります。

変わらないことの価値

それはさておき、個々のオリンピックの大会の中身はどうでしょう。2020年大会は、前回の東京大会から56年後の開催となりますが、競技種目の多くは陸上、水泳などあまり変わりません。種目の多くは人体の構造に合わせ、何世代もかけて発達してきました。わずか数十年では変わらないはずです。むしろ注目すべきはパラリンピックでしょう。道具や会場の技術革新で障がいをもった人たちも多くの競技ができるようになりました。これはすばらしい、大きな変化といえるでしょう。

しかし、それを除くとオリンピックの「聖火ランナーがいて各国選手がメダルを競う世界の祭典」というスタイルは変わらりません。しかも、4年ごとに同じことをやり続けてきました。いい意味での“偉大なるマンネリ”・・・ワンパターンであるが故に安定したイベントといえるでしょう(もう、終わってしまいましたが「水戸黄門」「男はつらいよ」「こち亀」などと同じです)。

大学ビジネスに似ている

オリンピックは大学経営にも似ています。まず、主役が若者です。それだけでさわやか、いいことをやっている感じがあります。だから大学やIOCの理事は名誉職として人気があり、何らかの形で経営にかかわりたい人が多いのです(評議員なども同じ)。

競技種目(科目)が基本的に変わらない点も似ています(時代に合わせ、少しずつ変わりますが)。そして選手(学生)が基本的には4年で入れ替わる点も似ています。

大学もオリンピックも課外活動を重視します。大学ではキャンパスが、オリンピックでは選手村が舞台です。学生(選手)たちはそこで友達を作り、交流を育み、時には恋をします。

大学は単位認定、修了資格認定、そして受験のプロセスで個人に学歴を与えます。同様にオリンピックも記録認定やメダル授与を通じてアスリートたちにメダリスト、あるいはオリンピアンという資格を与えます。

いうまでもないことですがたかが学歴で人生は決まらない。安東忠雄さんは大学に行かなかった名建築家です。オリンピックも同じで、オリンピアンでなくても世界記録を出すアスリートはいます。

しかし、多くの高校生にとって大学ブランド、学歴は励みの源になります。アスリートにとってオリンピックの代表選手になることとメダル獲得は努力と研鑽の源泉です。

ちなみに大学は一定の年月を経て良いブランドを確立するとおのずから学生と教授陣が集まります。それで勝手に回っていくところがあります。オリンピックも同じでしょう。100年の歴史で圧倒的なブランドが確立できています。放っておいても各国の一流選手が集まり、世界記録がどんどん出るのです。

このように大学もオリンピックも4年ごとに“偉大なるマンネリ”を繰り返しながら強力なブランドを確立してきました。両者には意外な共通点があるのです。

全体としての成功、個別の失敗

大学とオリンピックにはもう一つ(不幸な)共通点があります。それは全体としては成功していても、個々の事例がうまくいくとは限らない点です。

大学は全体としては進学率が上がり、市場が成長しています。しかし個々の大学の経営には失敗も多いのです。

オリンピックも同じでしょう。全体としては年輪を重ね、圧倒的な地位を築いてきました。しかしモントリオール、長野など多くの大会が巨額の赤字を出し、やり方次第では危険なビジネスです。

大学もオリンピックも一見すると商売とは関係がなさそうです。全体的には“偉大なるマンネリ”の繰り返しに見えます。しかし、ぼうーっとしているとえらい目にあいます。だから大学もオリンピックの大会も時代に合わせ、姿を変えていかなければならないのです。

2020年大会はどうでしょう。“偉大なるマンネリ”を踏襲しつつも時代に合わせた革新性を追求すべきでしょう。まちがっても「1964 again」という私たち中高年世代のノスタルジーの対象にしてはいけません。

日本は事実上、財政破たんしています。その国がオリンピックをやるのはリスキー、下手をすると致命傷になるでしょう。

これからはコストを厳しく管理し、一方では2020年以降のレガシーに照準を当て(1964 againではなく)、国家戦略と都市戦略に連動させた仕掛けづくりが課題でしょう。


編集部より:このブログは慶應義塾大学総合政策学部教授、上山信一氏のブログ、2016年9月26日の記事を転載させていただきました(アイキャッチ画像はJSC公式サイトより引用)。転載を快諾いただいた上山氏に感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、上山氏のブログ「見えないものを見よう」をご覧ください。