韓国聯合ニュースは11月29日、「韓国の朴槿恵大統領は29日、親友の崔順実(チェ・スンシル)被告の国政介入事件をめぐり、3回目の国民向け談話を発表し、『任期短縮を含め、進退問題を国会の決定に委ねる』と述べた」と報じた。
国家最高指導者に選出された人物がカメラの前で頭を下げ、任期前の辞任の意思表明をしたことは、朴大統領にとって「敗北の日」となったが、5年間の任期を託し、大統領を選出した国民にとってもやはり「敗北の日」となったはずだ。
前者は任期前の退陣で「敗北の日」をいや応なく認識できるだろうが、後者の場合、選出した大統領の不正を追及した結果、大統領自ら早期辞任に追い込まれた経緯を「勝利の日」と誤解する危険性があるのだ。
ここでは「大統領の敗北」についてではなく、後者の「国民の敗北」について考えてみたい。朴大統領の場合、親友の崔女史に対して公私の区別なく付き合ってきたことが大きな蹉跌となった。同情に値する面もあるが、私人の国政関与は国の安全問題を危険に陥れるもので、絶対に許されない。問題は、敗北したのは朴大統領一人ではないということだ。大統領を選出した国民も同様に敗北したのだ。
韓国聯合ニュース日本語電子版に以下の記事が報じられていた。
「1日午後3時15分ごろ、韓国南東部の慶尚北道亀尾市にある朴正熙元大統領の生家で放火とみられる火災が発生した。火は約10分後に消し止められたが、朴元大統領の遺影などがある追悼館が全焼した。警察は放火の容疑者とみられる40~50代の男を現場で検挙し、調べている」
その記事を読んだ時、2014年4月16日、仁川から済州島に向かっていた旅客船「セウォル号」が沈没し、約300人が犠牲となるという大事故が起きた時のことを思いだした。船長ら乗組員が沈没する2時間前にボートで脱出する一方、船客に対して適切な救援活動を行っていなかったことが判明し、遺族関係者ばかりか、韓国国民を怒らせた事件だ。
問題は、事故1年後の15年4月16日、朴槿恵大統領が死者、行方不明者の前に献花と焼香をするために事故現場の埠頭を訪れたが、遺族関係者に焼香場を閉鎖され、焼香すらできずに戻っていったという出来事があったのだ。
遺族関係者の「セウォル号を早く引き揚げろ」といった叫びが事故現場から去る大統領の背中に向かって投げつけられた。そのニュースを読んで、当方は大きなショックを受けた。そして先述した「朴元大統領の生家への放火」事件の記事が重なってきたのだ。
当方は「朴大統領の焼香を拒んだ」というニュースを読んで、韓民族の情が病んでいる、と強く感じた。その時のショックを「焼香を拒む韓国人の“病んだ情”」2015年4月18日参考)というコラムを書いた。
放火の件は一人の男の犯行だが、国家最高指導者の朴大統領を酷評し、その父親の生家まで火をつける精神は、「焼香を拒んだ」時と同じように、病んでいる。焼香を拒んだ遺族関係者も朴元大統領の生家に火をつけた男も当方の目には韓国国民のシンボルのように映るのだ。第2、第3の同じような国民が出てくるのではないか。
当方は朴大統領の弾劾に反対しているのではない。大統領自身は早期退陣で既に罰せられている。その姿を見ている国民も本来、同じように敗北感を感じるべきだ。失政した大統領を選出したという責任がある。責任は常に相手、為政者のみが背負うものではなく、国民一人ひとりが担わなければならない。その責任への連帯感がなければ、愛国心などは生まれてこない。真の愛国者は国家最高指導者に選出した人物を火あぶりにはしない。国の名誉、品格が問われるからだ。
同時に、敗北した人間の悲しみに対しても思いがいかなければならない。韓国国民は他者の悲しみに対しても連帯感を再発見しなければならない。他者の悲しみを自分のそれと同じように感じることができれば、自身の悲しみは癒されるのではないか。これは理屈ではない。
朴大統領の事件は大統領の敗北であり、同時に、国民の敗北でもあることを心底から感じることができれば、韓国が再生する道が自然と開かれるのでないか。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年12月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。