企業は、連続的な変革をなし遂げていかないと、成長し得ない。成長しないと、既存の事業の質も維持できず、緩やかか、あるとき突然か、いずれにしても、消滅に向かう。もちろん、それでいい。産業を構成する個々の企業の淘汰のなかで、新しい企業が生まれ、その新しい企業が変革を担いつつ、産業の発展が図られれば、それでいいのだ。
産業論としては、それでいいが、企業論としてはなりたたない。企業間の競争による淘汰の論理は、企業論の本質の一面かもしれないが、どの企業も、自己の成長を信じて競争するからこそ、いわば競争の質があるわけで、その競争の質があるからこそ、競争による産業の発展があるのだ。敗北を予定して競争している企業など、あり得ない。むしろ、成長への確信こそが企業論の中核でなければならない。
脱線しよう。あの宗教改革の指導者カルヴァンが唱えた予定説、即ち、神による救済を受けられるものは最初から決まっているという説だが、この予定説こそが神の摂理に従った合理的な経済生活、即ち、勤勉と節約に基づく経済生活への誘因として働いたとするのが、ウェーバーの資本主義の精神の起源にかかわる有名な学説であるわけだ。
つまり、人々を勤勉へと駆り立てたのは、それが神の命じることだからであり、予定により救済されるものが先に決まっているとしても、誰がその選ばれたものであるかは神以外には知られないのだから、人々は救済への確信を得るために、神の望むことに精励したというのだ。職業とは、神の召命であったのだ。
救済されるかどうかは予定されているにしても、自分が救済されるかどうかが不可知である以上、人々は、自己の内面の問題として、救済への確信を求めた、あるいは、求めざるを得なかったのである。その確信を高めるための宗教的精進の道こそが経済的な勤労と節約であった、そして、結果的に、それが産業資本の形成につながったのである。これは、非常に意味深いことである。
企業を精神的に支えるものも、同様の確信でなければならない。神の目から見れば、淘汰されていく企業も、変革の連続により成長を続ける企業も、予定されているのだが、結果が不可知である限り、成長への確信を得るために、不断の経営努力を続けなくてはならないのである。
資本主義の原点においては、成長の担い手は、個人の手工業者であった。その手工業者の内面を支えたのは、救済への確信であった。現代資本主義において、成長の担い手が内部組織をもった企業に変わったとき、その企業の内部組織を支えるものは、絶えざる成長への確信でなければならないわけである。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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