「衝突」「戦闘」をめぐる「言葉遊び」はなぜ生まれるか

篠田 英朗

PKOを巡り、“苦しい”答弁を強いられている稲田防衛相(自民党サイトより)

政府は南スーダンの状況を「衝突」という言葉で描写し続けていることが、現実と乖離しているという批判を招き続けている。それでは南スーダンにあるのは「衝突」ではなくて、「戦闘」なのか?といっても、「衝突」のみならず「戦闘」の定義があいまいなので、堂々巡りである。所属する政党の違いにもとづいて、「戦闘」という言葉を使ったり、使わなかったりするだけだ。何も面白味がない。

もう少しこの問題について現実的に考えてみるとしたら、どういう姿勢をとるべきだろうか。実際のPKO法の文言はどうなっているだろう。同法は、第三条第一号イで、日本が参加する「国連平和維持活動」の性格の一つを次のように定義している。

「武力紛争の停止及びこれを維持するとの紛争当事者間の合意があり、かつ、当該活動が行われる地域の属する国(当該国において国際連合の総会又は安全保障理事会が行う決議に従って施政を行う機関がある場合にあっては、当該機関。以下同じ。)及び紛争当事者の当該活動が行われることについての同意がある場合に、いずれの紛争当事者にも偏ることなく実施される活動」

PKO法の成立にあたっては、この日本が参加する国連平和維持活動の定義が、そのまま日本のPKOを判断する「参加五原則」になる、という仕組みがとられている。同法の第6条第13号は、次のように定めている。

「13  内閣総理大臣は、実施計画の変更・・・をすることが必要であると認めるとき、又は適当であると認めるときは、実施計画の変更の案につき閣議の決定を求めなければならない。
一  国際連合平和維持活動(第三条第一号イに該当するものに限る。)のために実施する国際平和協力業務については、同号イに規定する合意若しくは同意若しくは第一項第一号に掲げる同意が存在しなくなったと認められる場合又は当該活動がいずれの紛争当事者にも偏ることなく実施されなくなったと認められる場合 」

「戦闘」という言葉が問題になる理由は、「戦闘」があるとPKO法の「武力紛争」に該当してしまい、「参加五原則」の条件が崩れて、自衛隊の撤退につながる議論になってしまうと考えられているからである。ただし「戦闘」があると「武力紛争の停止及びこれを維持するとの紛争当事者間の合意」が消滅したということになるのかどうかも、よくわからないところはある。要するに、「南スーダンに残るのか、撤退するのか」、というハードな議論をする代わりに、「言葉遊び」をしているわけである。

PKO法の論理構成は、非常に面白い。武力紛争の停止に関する紛争当事者の合意は、本来は日本が参加する国連平和維持活動の種類の定義において現れる要件である。したがってもし定義の要件が崩れた場合、PKO法の文言からまず推論されるのは、実は「日本が参加する種類の国連平和維持活動」の消滅である。「日本が参加する種類の国連平和維持活動」が消滅しているので、日本の実施計画も変更されなければならず、撤退しなければならないという論理構成になっている。

当然だが、日本のPKO法にしたがって、国連平和維持活動それ自体が設立されたり消滅させられたりするわけではない。それどころか実際の設立権限を持つ国連安全保障理事会であっても、頻繁に国連平和維持活動それ自体を簡単に消滅させたりはしない。そもそも武力紛争が停止して和平合意が達成されても、その合意が脆弱であるがゆえに、底支えする目的で平和維持活動を展開させているのである。脆弱な合意を守るために展開している活動が、合意の脆弱性に直面したと言う理由でいちいち消滅していたら、何度消滅してもきりがない。

日本のPKO法は、国連という他人の組織に参加する際に、その組織の判断とは別に、あらかじめ定められた独自の基準でその組織の活動の種類を定義づけて分類することを試みているという点で、非常に大胆な法律であると言える。しかも参加の時点で種類を審査するだけでなく、不断に継続的に審査し続けようと言うのだから、壮大な試みである。言うまでもないが、この不用意なまでに壮大な試みは、結果としては、煙に巻くような意味不明な議論だけを大量産出する効果だけを発揮してきている。

たとえば、もし「国連安保理による正当な手続きをへて設立・維持されている平和維持活動に日本は参加する」、といったような法規定であったならば、法的判断は明確にできる。その上で、実際にいつ・どこで・どのように参加するか/撤退するかを、政治的議論で進めればよいことになる。

本来、国民が政治家に求めているのは、言葉の解釈を競い合う評論家的な態度ではなく、南スーダンPKO参加で日本が何をしようとしているのか、踏みとどまって何をしようとしているのか、撤退することによって何をしようとするのか、という政治的議論であろう。

PKO法が議論を邪魔している、いや憲法が議論を邪魔しているのだ、という言い方もできるのかもしれないが、果たして本当にそうなのだろうか。果たして憲法は本当に「参加五原則」などを求めているのだろうか。

結局、なぜ日本では必要な政治的議論がなされないのか?といえば、誰もそのような議論をしたくないからではないか?と、私は疑っている。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2017年2月26日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた篠田氏に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。