教育勅語は軍国主義かを中立的に論じる

八幡 和郎

教育勅語(Wikipediaより:編集部)

「アッキード事件」などと人権侵害が濃厚な印象操作が行われているが、同じくキーワードとして効果的に働いているのが、「教育勅語」である。

また、よせばいいのに、稲田朋美防衛相は8日の参院予算委員会で、教育勅語について「『日本が道義国家を目指すべきだ』という精神は取り戻すべきだ」と述べている。

その教育勅語について、私は2月24日にアゴラに寄稿した『昭恵夫人名誉校長の学校“事件”を交通整理してみると』のなかで次のように書いた。

教育勅語は明治20年頃に西洋化と伝統的価値観の調和をめざすために作成されたもので、その時代的背景を踏まえ妥当性があった。しかし、すでに明治末期には教育の基本とするには時代遅れといわれ、西園寺文部大臣が国際性や女性の重視を加えた新しい勅語の制定を図り明治天皇の了承も得ていた。それが、明治天皇の崩御で改正の機会を失い、逆に大正や昭和を通じて不磨の大典化されてしまって弊害も多かった。したがって、これを、戦前のようなかたちで復活することは論外だが、中国の古典や老舗の家訓と同じで間違ったことが書いてあるわけでないので、私立学校などでどういう扱いをしようが勝手だ

そうしたところ、在米作家・ジャーナリストの冷泉彰彦さんが、自身のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』で、その知られざる幻の「第二教育勅語」の中身について紹介されたとのことです。(以下、森友学園問題で注目。知られざる幻の「第二教育勅語」とは?)その要旨は以下の通りです。

『歴史家の八幡和郎氏といえば、蓮舫氏の二重国籍問題で強硬な論陣を張っていた人で、この点に関しては私は賛同しかねます。ですが、史家としては、情報へのセンスとバランス感覚に不思議な味があり、100%とまでは言いませんが、興味深い指摘をしている方でもあります。

その八幡氏は、昨今話題の教育勅語について

明治末期には教育の基本とするには時代遅れといわれ、西園寺文部大臣が国際性や女性の重視を加えた新しい勅語の制定を図り明治天皇の了承も得ていた。それが、明治天皇の崩御で改正の機会を失い、逆に大正や昭和を通じて不磨の大典化されてしまって弊害も多かった。

とコメントしています。

私は西園寺の「第二教育勅語」というのは不勉強で承知しておりませんでした。この八幡氏の指摘で初めてその存在を知り、その中身を見てみることができました。』

このうち、一般にアメリカで活躍されている日本人には本人でなくとも周辺に二重国籍の人が必ずいますので、二重国籍問題への厳しい追及を好まれない方が多いから「この点に関しては私は賛同しかねます」といいうことについて論評をするのは避けます。

しかし、これを機会に私が指摘した教育勅語の歴史について、認識が深まればけっこうなことです。

そこで、もう少し詳しく、教育勅語の制定とその後の経緯について解説しておこうと思います。

明治の遺産のなかで、もっとも評価が大きく分かれているひとつが教育勅語です。復活させて教育の柱とすべきだという人から、軍国主義の淵源になった許しがたい文書だと言う人もいます。なんとも短くそれほど蘊蓄がありそうもない文書に対して、両方とも大人げない気がします。

私は、教育勅語は、文明開化に一段落がついた明治23年(1890年)という時期において、それなりにもっともな意図で良いバランス感覚でまとめられ出された文書であるし、それは、そのままの形では時代がかわると扱うべきでないものとなったというだけだと思います。

明治20年頃というのは、近代日本にとってひとつの転換期でした。文明開化と近代国家の枠組みが明治22年の大日本国憲法発布などを区切りに、いちおう、できあがった時期です。

このころになると、岡倉天心らによって東京美術学校が設立されるとか、文化財、伝統芸能など、道徳面だけでなく広く伝統的なものを見直そうという機運がが出てきました。また、新教育を受けた子が無学な親や兄を馬鹿にすると言ったことも起きて不満も高まりました。

伝統的な道徳や文化を大事にしろというのは、明治初年に島津久光や公家などが要求したものの、容れられなかったのですが、このころになると、いちおう文明開化を達成したのだから、耳を傾けてもいいということになり、明治天皇もが熱心でした。

案文は、開明的な井上毅が元田永孚ら保守派の意見を踏まえつつ、欧米人から見て奇異でないようにぎりぎりの配慮をしたものでした。もちろん、伝統思想といっても、水戸学の影響が過度だとか、仏教思想が無視されたのも事実ですが、明治23年という時点で言えば、まずは穏当なものでしたし、国民に精神的な安定を与えた効用もたしかにありました。いってみれば、よくできた家訓みたいなものです。

ところが、明治末年になると、行き過ぎた道徳否定に歯止めをかける目的は達して逆に復古的に過ぎる印象が生じました。そこで、文部大臣西園寺公望が「国際的な責任」や「女子教育の重要性」を入れたいと提案し、天皇も了承したというのですが、明治天皇が崩御されたことから改正できないままになり、逆に、アンタッチャブルな扱いを受けるようになりました。

起草者である井上毅が最初から心配していたことですが、宗教のような色彩の儀式で扱われたりしたり、宗教家などを教育勅語を批判したとして弾圧するように使われましたのおは残念なことです。

とくに、創価学会の牧口常三郎初代会長が教育勅語で、忠と義を尽くすように求められていることについて、「天皇自らが忠を尽くせというのは,おかしいから削除したら」というような趣旨の主張をしたことも逮捕され、結果、獄死する原因になったということもありました。(トータルに教育勅語を否定したということでない)

「基本的人権を損ない、国際信義に疑いを残す」として1948年に衆参両院で排除と失効確認が決議されたのだが、それは、占領軍の圧力によるものですし、また、国家全体としての扱いが問題だったのであって、内容がけしからんということにはただちになりません。

内容はあらゆる家訓や社訓や道徳家の言葉と同じで、そんなに間違っていることを書いているわけでありません。しかし、それを道徳の基本に据えるとなると、バランスが良いか、書き足りないものはないかが問われます。

もし、これをいま古文の時間にでも教えるなら、何の問題もないでしょう。古代中国の格言より気が利いてます。しかし、特別の意味を持つ道徳規範として教えるのは、明治末年に既に時代遅れと言われたものをどうしてまたということだと思います。また、仏教的な考え方が入っていないのが、伝統思想といえないという指摘もあります。

また、ミッション系の学校で、古代パレスティナの道徳律を教えたり暗誦させたりしたらダメだということも聞いたことありませんし、直接に政治的な色彩があるものでもありませんから、私学における扱いについて、とやかくいわねばならないものではありません。

以上が、中立的な観点に立った教育勅語論ですので、参考にしていただければ幸いです。

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