米大統領が横田基地を使ったと言って怒る昭和の人々

篠田 英朗

横田基地で演説するトランプ大統領(ホワイトハウス公式Facebookより:編集部)

訪日時にトランプ大統領が横田基地に降り立ったことに、強い怒りを表明している人が結構いたようだ。

(たとえば小田嶋隆氏の『トランプは横田に舞い降りた 』(日経ビジネス)、矢部宏治氏の「トランプ来日の足取りから見えた、日本の「完全主権喪失状態」」(現代ビジネス))

米大統領が横田基地を使うと、日本を属国扱いしていることになるのだという。「戦後」を生き抜いた世代の日本人のアメリカへの感情には、若い世代はもちろん、大学紛争後に育ち、大学時に冷戦が終焉してしまった私にとってすら、簡単には共有できないものがある。

「戦後」世代の問題は、「横田基地」に象徴されていると言える。横田基地は、トランプ大統領を迎えるために新設されたものではない。終戦後、一貫して存在していた。単なる米軍基地ではない。朝鮮戦争以来、国連軍の後方司令部も置かれている。つまり戦後の日本に常に存在していた現実なのだ。朝鮮半島の歴史とも密接不可分に存在し続けていた現実なのだ。それなのにその現実を表に出す者がいると、怒る、というのは、欺瞞的だと言わざるを得ない。

横田基地がある現実に疑問を感じ、現実の是正に必死に知恵を絞り、政策提案をしようとするのであれば、まだわかる。しかしその現実を知りながら、見て見ぬふりをして、一切考えないようにして日常生活を送っておきながら、時に誰かがその現実を表に出すと、その人に対して怒って見せたりする、というのは、全く困った態度である。

まずは真摯に現実に向き合うべきだ。欺瞞的な常識を振りかざして、現実を表に出す人物に怒り、現実を封印することだけにエネルギーを使うのは、不健全だ。

集団的自衛権を違憲だとする1960年代末以降の日本には、全般的に、このような欺瞞的な態度が見られる。そのため私は、集団的自衛権違憲論は、団塊の世代中心主義の産物だ、と言っている。

立憲民主党代表の枝野幸男氏を例に取ろう。枝野氏は、「日米安全保障条約に基づき、我が国に米軍基地が存在しているという実態は、集団的自衛権の「行使」ではないにしても、ある種の集団的自衛と説明するしかありません」、と分析する。

関連拙稿『枝野氏と長谷部教授のダブスタ:枝野氏指導の憲法学者小嶋氏の補足』

枝野氏は、おそらくその「現実」が気に入らない。それでは、その「現実」を是正するために、新しい政策を提示する努力をするのか?しない。何もしない。考えることすらしない。結局は、ただ、集団的自衛が存在する現実を見て見ぬふりをして、「すべて個別的自衛権で説明できる」、などという言葉の上だけの解決にならない解決策のようなものを提唱するだけの誘惑に身を委ねるのである。

横田基地にいるトランプ大統領を狙った攻撃が加えられたら、日本はそれに反撃するのか。枝野氏であれば、米艦防護と同じように、反撃は「常識」だろう、と言うだろう。ところが、枝野氏が言う「集団的自衛」の「現実」にもとづいて、集団的自衛権で反撃を正当化する者がいたら、「お前は反立憲的だ」と糾弾されることになる。反撃するとしても、それはとにかく個別的自衛権なのだ、何をやっても個別的自衛権なのだ、と強弁する者だけが、「立憲主義者」なのだという。

「集団的自衛」の「現実」があると言いながら、その「現実」に即した議論をする者がいたら、「反立憲的だ」と叫んで封殺しようとする。「現実」にかかわらず、「横田基地を守るのはあくまでも個別的自衛権だ」と叫ぶ者だけが、憲法学者によって「立憲主義者」として認定される。「現実」を見て見ぬふりする者だけが、「立憲主義者」なのだと主張する。

「護憲」を党派的に掲げる人々が罪深いのは、「それでは現実はどうなるのか」、という当然の疑問を、封殺するからだ。「現実はどうなるのか」という疑問を提起する者には、「戦前の復活だ」、「軍国主義だ」、「三流蓑田胸喜だ」と、思いつく限りの誹謗中傷を投げつけて、封殺しようとする。そして、結局「現実」そのものを封殺しようとする。

「護憲派」の勝利によってもたらされるのは、改善された現実ではない。言論封殺で、現実が改善することはない。むしろ、現実を直視しようとする真摯な姿勢が、言論封殺によって、社会から抹殺される。そして「われわれは世界最先端の平和主義者だ、だからそれに反する現実は全て見て見ぬふりをしなければならない」、といった内容の主張が、「冷戦時代は良かった」のようなノスタルジアとともに、展開していく。

横田基地は戦後一貫して日本に存在していた。集団的自衛も存在しているのだ。その現実に、少なくとも、真剣に向き合うべきだ。そして現実に向き合った上で何らかの判断をしたら、その判断に真摯に責任を負うべきだ。

「見て見ぬふりをして欺瞞的に生きていこうじゃないか、現実を表に出す人がいたら怒って現実を封殺しようじゃないか」、という姿勢は、真面目な判断とは言えない。仮に冷戦時代後期には、そのような欺瞞が日本社会の常識になったのだとしても、その常識の方が、一時的なものでしかなかったのだ。

いずれにしても、そのような昭和な態度を、若い世代に押し付けて、強引に未来ある若者の人生を危機にさらそうとすることだけは、やめてもらいたい。

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<*付記:私は、矢部宏治氏のよく調査された仕事を、非常に高く評価している。ただ、矢部氏の仕事にふれるたら、「ああ、世界がひっくり返る衝撃だ」、と必ずなるわけではない。矢部氏の話の骨子は、普通に安全保障問題に関心を持っていれば、誰でも知っている事だ。現実を隠してきたのは、むしろ「護憲派」の運動だ。また、僭越ながら矢部氏の言説には、ときおり広告会社的な誇張が見られる。たとえば「砂川裁判最高裁判決」が「日米安保については憲法判断しない」判決で、それは「駐日アメリカ大使の政治工作」によるものだったというのは、誇張だ。砂川事件最高裁判決は、憲法9条は米軍の駐留を禁止しないという判断を示したものだ。違憲と判断しなかったことを「憲法判断しない」と言い替えるのは、間違いだ。また、田中耕太郎最高裁長官が判決前に駐日アメリカ大使に接触したことが問題行動だったとしても、「大使の政治工作」によって判決が下された、とまでは言えないだろう。もともと田中耕太郎が、「大正デモクラシー」の申し子といってよい「世界法」主義者だったことを重視すべきだ。拙稿「国際法と国内法の連動性から見た砂川事件最高裁判決」、『法律時報』2015年87巻5号、32-37頁、参照。>


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2017年11月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。