子どもに好き嫌いで差をつけた徳川家康

八幡 和郎

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵、Wikipediaより:編集部)

先週、「おんな城主・直虎」で、出来のよく父親思いの息子だった家康が、信長の圧力でなくなく信康を処断したと描かれていたのを史実でなく、家康と信康は深刻に対立しており、むしろ、家康が信康の義父である信長の了解をとったうえで処断したとみるのが妥当だと書いたらけっこう好評をいただいた(『「系図」を知ると日本史の謎が解ける』(青春新書インテリジェンス))。

そこで、今回は家康がそれぞれの子どもをどう見ていたか少し振り返ってみたい。
家康は戦国武将のなかでは例外的に慎重な人物であり、ケチで人気がなかったが、かえって希少価値で生き残ったようなところがある。

それに対して、信康は当時の若殿様として普通の人だ。血気盛んで残虐行為も多いが、並外れてと言うこともなく、ある意味では家臣の人気はあった。そして、慎重な家康を困ったオヤジとみて強引にいうことを聞かしたりもした。その典型が、あとで書く、次男秀康の認知を巡るエピソードだ。

なにしろ家康とは年齢差が16歳だから、子と言うよりは弟のような存在で、むしろライバルになってしまった。そういうこともあってか。家康も厳しくしつけるということがなく、そのことを悔いていたという。

秀康の母は側室でなく、築山殿の侍女で、いわばお手つきに過ぎない。家康は自分の子であるかの確信も持てなかったのか認知しなかったのを、兄の信康が強引に引き合わせ認知させた。しかし、疑いは残ったのか跡取りにはしなかった。秀康も対抗上、秀吉の養子としての立場を崩さず、福井藩主になっても豊臣大名の扱いだった。

秀忠は自己主張をせず、家康の息子として忠実だった。家康としては物足りなくもあっただろうが、守成の時代の後継者としては評価していたようだ。

忠吉は秀忠の同母弟であるが、勇猛だったといわれる。しかし、その死に際して秀忠はおおいに嘆いたが家康はそれほどでもなかったという。

忠輝は幼い頃、養子が信康に似ているといって嫌ったといわれる(信康に似ているというのがマイナス評価であることに着目すべき)。反抗的で幽閉流罪とされた。母の茶阿局への家康の信頼は厚かったのに、最後まで許さなかった。

義直への家康の評価はとくに残っていないが、忠吉のあとの尾張国主として高い扱いをしている。

頼宣と頼房の母は同じで、関東の名門の出である。未亡人ばかり側室にしていた(感覚的には秘書を愛人にしたイメージ)の家康だが、中年になって珍しく若い少女を側室にした。

頼宣は聡明で勇猛で家康から非常に可愛がられたようで、自分の隠居所である駿府城の城主にしている。しかし、家康の死後は秀忠や家光に疎んじられて和歌山に移された。

頼房は有能だがややエキセントリックだったようで、その性格は息子の水戸光圀に受け継がれた。もらった石高がやや少ないのは、頼房と同母なので、一種の分家とみられたのかもしれない。

娘たちのなかでは、北条氏直、続いて池田輝政の正室となった督姫への厚遇が際立つ。振姫は蒲生秀行と死別したあと浅野長晟と再婚して子を産んだが高齢出産がたたってすぐ死んでしまった。

この二人に比べて信康の同母妹である亀姫(奥平信昌室)やそのこどもたちへの待遇はもうひとつで、ここでも信康や築山殿を殺したことを悔いていないことがうかがえる。

長男・松平信康(母:築山殿)
二男・結城秀康(母:小督局)
三男・徳川秀忠(母:西郷局)
四男・松平忠吉(母:西郷局)
五男・武田信吉(母:下山殿)
六男・松平忠輝(母:茶阿局)
七男・松平松千代(母:茶阿局)
八男・平岩仙千代(母:お亀)
九男・徳川義直(母:お亀)
十男・徳川頼宣(母:お万)
十一男・徳川頼房(母:お万)

女子

長女・亀姫(母:築山殿) – 奥平信昌室
二女・督姫(母:西郡局) – 北条氏直室のちに池田輝政室
三女・振姫(母:お竹) – 蒲生秀行・浅野長晟室
四女・松姫(母:お久)
五女・市姫(母:お梶)