韓国蔚山広域市中区役所が慶長の役当時、倭軍が建てた城「鶴城公園」に加藤清正の銅像を建てるそうだ。
「設置される銅像は権慄将軍と明の楊鎬将軍は騎馬像で蔚山市倭城に進撃する姿であり、加藤清正は島山城戦闘で城内に孤立されて水と食糧不足で苦しめられている姿」(韓国に加藤清正の像を建てる…苦しむ姿を演出 | 中央日報)
だそうだ。
日本からの観光客を期待する向きもあるというから訳が分からないが、平和教育などといって修学旅行で連れてきて土下座させる学校もあるかもしれないから、あながち見当外れでないかもしれない。そんな銅像でも、地域社会と政界は「日本がまだ謝罪をしたこともないのに日本の武将の像を建てるのは間違っている」として反発しているとかいう。
それなら、日本も福岡市に、元・高麗寇を記念して日本軍を率いた少弐景資の騎馬像と、モンゴル人総司令官ヒンドゥと、副将で高麗人の洪茶丘が海におぼれているところの銅像を建てようではないか。元寇でなく、元・高麗寇と呼ぶべきであるのは、新著『韓国と日本がわかる 最強の韓国史』(扶桑社新書)でも書いたとおりだ。高麗軍も加わっているどころか、むしろ主力だったし、経緯としてもモンゴルをけしかけたともいえるのだ。
ところが、馬鹿な日本人で、高麗がしばらく抵抗したので元の襲来は遅れて準備も出来たのだから感謝すべきだとか寝ぼけたことをいっていうのがいる。隣の家の住人が盗賊に荒らされたのち、その盗賊を手引きして自分の家に盗みに入ってきたのを、「自分の家が襲われている時間だけでも貴方の家が襲われるのが遅れたから感謝しろ」と言われてるようなものだ。
高麗がモンゴルの支配を何の抵抗のなく受けたわけではないが、宮廷は江華島に逃げ込んで庶民が犠牲になるのを放置していただけだし、降伏ののちも「三別抄の乱」という局所的な抵抗もあったが、日本のためにやっていたのでもない。
フビライの宮廷にいた忠烈王という高麗の世子がモンゴルをけしかけていたし、第三次侵攻まで要求していたのだ。それが沙汰止みになったのは、ベトナムで手こずったからだ。
一方、荒れ果てた対馬や九州の人たちが食料を求め、拉致された家族を探し、半島に渡った。これが倭寇の始まりだ。古代の列島と半島の関係は、新羅によって侵略された日本固有の領土である任那の回復がテーマだったが、中世から近世にかけての日本と韓国の関係は、元・高麗寇という侵略をもって始まったのである。