百済・任那についての公開質問状への回答

八幡 和郎

拙著『韓国と日本がわかる 最強の韓国史』(扶桑社新書)をお読みになった歴史家の宇山卓栄氏から、論評と質問をいただいた。宇山氏は、大阪在住で大手予備校の名物講師として活躍され、『「三国志」からリーダーの生き方を学ぶ』(三笠書房)『民族で読み解く世界史』(日本実業出版社、1月発売予定)などの著書がおありだ。

そのなかで、宇山氏は、「古代に於いて朝鮮半島南部は日本領であった」ということを拙著で強調していることに着目されるとともに、『この事実は今日、残念ながら日本人に広く共有されているとは言えない。日本の学校では、古代日本の朝鮮統治の実態をほとんど教えない。私は予備校で世界史の教鞭をとってきたので、それを「教えない」、「触れない」ということについて、何とかならないものかと常々、考えてきた』と書かれている。

私は「韓国の前身である新羅は日本領の任那を侵略し、唐が日本の友好国だった百済を侵略するのに荷担しのちにその給料を掠め取った」というのが、古代日本国家の歴史認識であり、それが日韓関係の原点だということを忘れてはいけないと思う。修正する必要は何もないし、また、そんなことをしたらご先祖様たちに申し訳ない。

日本が任那を領有していたというのは嘘だとか、仮にしていたとしたら侵略だったとか、百済が日本にお世話になったのだから日本は韓国に感謝しなくてはならないというのは間違いである(百済は中国と韓国に滅ぼされた日本の友好国だ)。

そのことは、日本国民がしっかりし認識しておかねばならないことだと思うので、この点について宇山氏がとくに興味をもっていただいたことは嬉しいことである。とくに、天皇訪韓の可能性なども語られる中で、しっかり、再確認しておくべきことだからだ。

宇山氏の仰っていることは、「韓国古代史についての八幡氏への質問」をごらんいただいただくとして、本稿では、宇山氏の質問に対して簡単だがお答えしておきたいと思う。

Q1
百済滅亡後、その遺民が多く日本に移住したことが本書でも触れられているが、その遺民たちの日本での扱われ方について、八幡氏はどのように考えておられるだろうか?

百済からの移民は統一国家成立後、継続的にいて、とくに、楽浪郡・帯方郡の遺民など漢族が知識人・技術者として移民している。秦氏・王仁博士・止利仏師などいずれも漢族である。しかし、扶余系の支配階級の移民もあったし、とくに、滅亡前後には大量に流れ込んだ。そのなかには、百済復興の際に王位継承候補にもなりうる百済王氏が宗家としていて鎮守府将軍・陸奥守などになっている。その意味で厚遇されたといえるが、皇室と対等の関係というようなものでないのもたしかで、明治体制下における李王家より琉球王家に近いレベルの扱いと言える。

Q2
百済の支配者は扶余族(満州系)だが、その国民がどのような構成であったかは不明と32ページにある。全羅道・忠清道の百済領域に、百済時代において、満州人が相当数移住したと見るか、それとも限定的と見るか?

満州に起源をもつ扶余族が支配層であることは間違いないが、それが、人口のどのくらいの割合を占めていたのか、庶民は違う系統の人種だったのか、ほかの馬韓諸国はどうなのか、有力な手がかりはないと理解しています。魏志東夷伝には、馬韓諸国の言語は新羅などと全く別のものだとしており、その意味では、百済に限らず、馬韓諸国の住民のかなりの部分が扶余系だった可能性は強いとは思いますが。

Q3
唐は百済討伐のために13万もの大軍を朝鮮半島に派遣していたらしい。新羅軍は5万とされる。この数字を鵜呑みにはできないが、大軍の唐・新羅連合軍に、日本はなぜ挑もうとしたのか?

雄略天皇(倭王武)が、自分の勢力圏を、東国(東北はほとんど含まれない)・西国・半島(だいたい38度線以南)の三つの部分からなると南朝への上表文で述べているように、大和朝廷にとっては、固有の領土ないし勢力圏として不可分な地域と認識されていたということでしょう。

Q4
白村江の戦いに向け、当事の斉明天皇(中大兄皇子の母)は自ら出陣している(福岡で急逝するが)。天皇が自ら外征に乗り出すという異例な事態をどう考えるか?

神功皇太后は大正15年(1926年)までは歴代天皇として扱われてきました。仲哀・神功・応神によって日本国家が統一されてから、中国に統一王朝は存在しなかったのですが、隋・唐の成立によってはじめて統一中国と対峙することになりました。隋とはアンチ高句麗連合を組んだのですが、朝鮮半島で新羅と百済・高句麗の対立が激しくなり、新羅が唐の従属国(単なる朝貢国とは違う半独立国)となることを条件に唐と手を組んだので、それまでの国際秩序が一変したのですから、まさに東アジア国際秩序の行方を賭けた国家存亡の時だったのですから当然です。

Q5
白村江の戦いで日本が敗北したことにより、日本国内でどのような動きや影響があったと見るか? 特に天皇の権力集権化ということについて、どうだろうか?

律令国家として結実する中央集権化は、統一国家成立以来、継続的なものです。ただ、雄略天皇の死のあと蘇我氏らの豪族の力が強まりましたが、隋・唐帝国の成立と、留学生の増加による百済を通さない直接交流が盛んになったことなどで、識字率の向上、最新の法制度についての知識の普及などで加速したとみられます。白村江の敗北も重要な加速要因ですが、それで方向が変わったというものではありません。

Q6
「日本」という国号が形成されるのは、白村江の戦い前後ではないかという説があるが、どのように考えておられるだろうか?

天皇は701年の大宝律令、日本は702年の遣唐使の派遣の時に使われているのが確認されますが、それまで使われていなかったのにそのような決定をしたとすれば正史に書かれているはずです。国内的には、天皇の呼称はスメラギ、アメノシタシロシメスオオキミなどが使われていたし、国名はヤマトであるが「日出ずる国」などともいっていたわけですし、「ひのもと」と言ったこともあった可能性が強い。それが、律令や正史の編成や、遣唐使派遣の活発化のなかで漢字表記として統一されたとみるべきでしょう。

Q7
渤海を高句麗の後継国としたいという北朝鮮や韓国の思惑とは別に、渤海は高句麗の遺民や文化を相当数受け入れていたと見るか、高句麗との結び付きは限定的であったと見るか?

高句麗の支配下にあった人々のなかで扶余族だけでなく、粟末靺鞨なども主要勢力として建国したもので、高句麗の再興という意識はなかったはず。また、高麗が高句麗再興を新羅からの独立の口実として使ったのは事実ですが、高句麗の唯一の継承国家が高麗であるというのはまったく無理です。

Q8
日本人と韓国人のDNAに、遺伝子的な結び付きがあるかどうかを調査したところ、HLA(ヒト白血球型抗原)の分析の結果、両者の遺伝的同質性が低いという結論が出ている。ただし、これは今日の日本人と韓国人についての関係であって、1500年前の両者の関係を、この実験結果から推し測ることはできない。一方、韓国人は中国人、モンゴル人、そして特に満州人との遺伝的同質性が高いという結果も出ている。これらについて、どう考えられるだろうか?

南北朝鮮や北東アジアで日本の場合ほどの分析がされていないので断定的なことをいうのは無理。稲作をもたらしたのも、帰化人の主流も漢族であって、非漢族の半島からの移民が弥生人や帰化人の主流であるということは考えにくい。さらに、ご指摘のように、高麗も李氏朝鮮も、北方系がかなり混血しているとみられる一族によって創立されたものであって、古代の半島の住民と現在の住民がどの程度重なっているかは不明。

ただし、現在の韓国語と新羅語は連続性があること、日本語と韓国語が共通の先祖を一部持つことは間違いない。ただし、日本語の先祖はほかにもありますし、新羅語から日本語が分かれたわけではなく、あくまで数千年以上前の謎の共通のルーツがあるというだけです。

韓国と日本がわかる最強の韓国史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2017-12-24