「大政奉還の時に271藩なのに廃藩置県は261藩の謎」で、『消えた江戸300藩の謎』(イースト新書Q)で扱った藩の数をどう数えるというテーマについて論じた。
今度は、藩の名前の話を少ししておこう。
藩というのが正式の行政単位として使われるようになったのは、明治2年(1869年)の版籍奉還時であって、明治4年(1871年)の廃藩置県まで2年間だけ使われた名称であるから江戸時代には存在しなかった。したがって、江戸時代に藩の名前はない。そして、明治2年には所在の都市名が一律に藩名とされた。
だから、土佐藩とか紀州藩とかいった国名ないしそれ由来の藩名というものは存在したことがないのであって、薩摩藩でなく鹿児島藩、土佐藩でなく高知藩、紀州藩でなく和歌山藩である。
長州藩ももちろんないのだが、それでは萩藩なのかというとそんなものもなかった。幕末に萩城は廃城となり、山口城に移転していたから山口藩であり長門の国すら離れていたのである。
また、版籍奉還時に改称して新地名を藩名にしたものも多い。同じ藩名は認められなかったので、舞鶴藩(旧称田辺)、亀岡藩(亀山)、高梁藩(備中松山)、厳原藩(府中)などもあるし、そういうわけでないが、大泉藩(鶴岡、庄内)、静岡藩(府中)などという名前に改称したものもある。
静岡の場合は、府中(駿府ということおあるが江戸時代は府中が普通)が「不忠」に通じるので改称した。
秋田藩の場合は、明治2年には久保田藩だったが、廃藩置県の直前に郡名をとって秋田と改称した。
会津については、会津藩も若松藩も存在したことがない。戊辰戦争で取りつぶしとなり、明治2年の段階では政府直轄の若松県だった。ただし、のちに青森県に斗南藩として再建されている(短期間、七戸藩だったこともあるようだ。はじめは県南の七戸に移ったが海に面したところをということで下北半島に移ったのは家老山川浩らの意思によるもので極寒の地に薩長政府が移したなどと言うのは虚説である)。
思わぬ藩が、実は、廃藩置県のときにはなかったのだ。