「リニア談合」事件で、東京地検特捜部は、独禁法違反の犯罪事実を認めた大林組と清水建設の幹部を在宅のまま調べる一方、犯罪事実を否認し独禁法違反には当たらないと主張し続けた大成建設と鹿島建設の幹部を逮捕した。
この「リニア談合事件」については、独禁法違反の犯罪ととらえることは全くの無理筋であり、不当であることは、昨年末から様々な観点から指摘してきたところだ(【リニア談合、独禁法での起訴には重大な問題 ~全論点徹底解説~】【リニア談合捜査「特捜・関東軍の暴走」が止まらない】)。
今回の事件で特捜部が行った被疑者逮捕は、検察史上最悪の「暴挙」だ(【“逆らう者は逮捕する”「権力ヤクザ」の特捜部】)。
ところが、今回の「大成、鹿島だけの逮捕」に関して、検察幹部が、今年6月からの刑事訴訟法改正施行での「日本版司法取引」の導入を先取りしたものだという、耳を疑うような発言をしていることを複数の司法担当記者から聞いた。そのような検察幹部の発言を、元検事の弁護士に「代弁」させる形で取り上げている産経新聞の記事もある【(産経)身柄と在宅…特捜部、6月導入の司法取引を先取り?】。
元検事の弁護士は、
特捜部はこれまで否認しているから逮捕、認めているから在宅という分け方はしてこなかった。今回は司法取引も視野に、捜査に協力し真実を語れば、身柄拘束にも慎重に臨むという姿勢を示しているのではないか。
とコメントしている。
しかし、「今回の2社だけの逮捕」を、日本版司法取引に関連づけて正当化されるものではない。また、なぜ、現時点で、捜査に協力する大林、清水側が「真実を語っている」と言えるのかも不明だ。日本版司法取引というのは、「他人の犯罪事実」に関して捜査機関に協力する供述をした者に一部の犯罪の不起訴、求刑の軽減等の有利な取扱いをすることができるとする制度だ。
今回のように、4者の共犯が疑われている事件において、被疑者の「身柄拘束」の取扱いに関して、事実を認めている者を有利に、否認している者を不利に取り扱うことを正当化する制度では決してない。
司法取引には「自己負罪型」と「他人負罪型」の2つがある
古くから「司法取引」が定着し、多用されてきた米国には、二つの類型の「司法取引」が認められている。
一つは、検察官と被疑者・弁護人との間で、自分の容疑事実のうち一部を認める代わりに、他の犯罪事実について立件しないことや処罰を軽減することを約束する「自己負罪型司法取引」。これが行われると、通常、一部の犯罪事実について被疑者は「有罪答弁」を行い、裁判手続を経ないで刑が確定する。
もう一つは、他人の犯罪事実についての供述をすることで、自らの処罰を軽減してもらう「他人負罪型司法取引」。これは、自分ではない「他人の犯罪」についての供述を行うことを検察官に対して約束し、それによって、自らの処罰を軽減してもらう制度だ。
今回の刑訴法改正で日本に導入されるのは「他人負罪型」であり、「自己負罪型」の導入は見送られた。その最大の理由は、日本の司法制度の下では、罪を犯した者が、その事実を認めるのは当然であり、自白したからと言って「特別の恩典」が与えられる理由がないということ、一方で、「他人の犯罪」については供述する義務はないので、それを敢えて行った者を優遇することを正当化することが可能だということである。
しかも、「有罪答弁」で裁判手続を経ることなく刑が確定する米国とは異なり、自白事件であっても、裁判所の判決という「司法判断」によって犯罪事実と刑が確定することになっている日本では、検察官と被疑者・弁護人との間だけで刑を確定させる権限は検察官には与えられていないので、米国のような「自己負罪型」の運用にはなじまない。
大林、清水の「有利な取扱い」は「闇司法取引」
このような「日本型司法取引」が、今年の6月の法改正で導入されるからといって、「2社だけの逮捕」を正当化する余地が全くないことは明らかだ。
もし、大林、清水を「有利に取り扱う理由」があるとすれば、
①自らの罪を認めていること、
②他人(大成、鹿島)の犯罪事実についての供述を行ったこと
の二つだが、「自己負罪型」が含まれていない日本版司法取引においては、
①は、少なくとも「処罰軽減の理由」にならない。
②について、もし、それが軽減の理由とされるのであれば、供述者と検察官との間で協議が行われ「合意書」が取り交わされることが必要だ。その供述に基づいて他人が起訴された場合には、その「合意書」が公判に提出され、当該他人にも、裁判所にも提示され、公判の場で供述の信用性が厳しく吟味される。
日本版司法取引の制度は、まだ導入されていないのであるから、検察官と大林、清水との間で正式に協議し「合意」するということはあり得ないし、「合意書」も存在しない。もし、今回、②の供述を理由とする大林、清水側への「有利な取扱い」、被疑者側との間で、逮捕をしないとか、処罰を軽減することを約束して、大成、鹿島に不利な供述を引き出すというようなことが行われたとすれば、「闇司法取引」そのものである。
従来から、特捜部などと「検察協力型ヤメ検弁護士」などとの間で、水面下で繰り返されてきた不透明な「闇司法取引」が行われないようにすることも「日本版司法取引」導入の大きな理由だったはずだ。制度導入を「先取り」して「闇司法取引」を行うなどというのが制度の趣旨に反することは明らかだ。
司法取引が「人質司法」を助長させる重大な危険
それ以上に問題なのは、「司法取引」と「身柄拘束」を関係づけることだ。
「司法取引」によって処罰が軽減されることと、身柄拘束の取扱いとは厳密に区別されるべきものだ。逮捕するか否かと「司法取引」を関連づけることは許されない。
日本では古くから「人質司法」の悪弊が指摘されてきた。犯罪事実を認めた者は身柄を拘束されないか、拘束されても早期に釈放されるが、犯罪事実を否認する者、無罪主張をする者は、勾留が長期化し、保釈も認められず、長期間にわたって身柄拘束が続くということだ。
無実、潔白を訴える者が、「人質司法」の下での長期間の身柄拘束に耐えられず、心ならずも事実に反する自白をしたり、公判で有罪を認めたりするという「冤罪」が、昔から繰り返されてきた。
本来、被疑者に対する犯罪捜査も「任意捜査」が原則だ。「強制捜査」、とりわけ身柄拘束は重大な人権侵害であり、それを正当化する十分な理由がある場合に限られる。身柄拘束の理由は、「逃亡のおそれ」と「罪証隠滅のおそれ」の二つだが、後者が、犯罪事実を否認する被疑者、無罪主張を行う被告人について拡大解釈されて、検察官が勾留の理由や、保釈に反対する理由に「罪証隠滅のおそれ」を強調し、裁判官がそのような検察官の意見に追従してしまうことが「人質司法」につながってきた。
今回の大成、鹿島側だけの逮捕が「司法取引の先取り」などと正当化されるようなことがあれば、日本版司法取引によって「人質司法」がさらに助長されることになりかねない。
2010年に表面化した大阪地検特捜部の不祥事等で検察が信頼を失墜したことを受けて、法務省が「検察の在り方検討会議」を設置し、そこから、検察改革の検討が始まった。私も、その会議に委員として議論に加わった。その流れの延長上で「取調べの可視化」とセットで導入されるに至ったのが「日本版司法取引」だった。ところが、それは、制度導入の趣旨を大きく逸脱して、検察の「焼け太り」につながろうとしている。それは、リニア談合問題の当事者である建設業界や社会資本整備の分野だけではなく、社会全体に対しても、重大な脅威を生じさせることになりかねない。
日本版司法取引をめぐる国会での議論
日本版司法取引が、検察官に、今回の「2社だけの逮捕」のようなやり方を許容するものではないことを、改めて社会全体で認識を共有する必要がある。刑訴法改正の国会審議での質疑・答弁を改めて確認してみよう。
2015年6月19日法務委員会において、自民党井野俊郎議員の質問に対して、林真琴法務省刑事局長は、次のように答弁している。
本法律案におきまして、合意に基づく供述が他人の公判で用いられる場合には、その合意内容が記載された書面が、当該他人にも、また裁判所にも必ずオープンにされて、その場で供述の信用性が厳しく吟味される仕組みとなっております。そのために、合意に基づく供述というものにつきましては、裏づけ証拠が十分に存在するなど、積極的に信用性を認めるべき事情が十分にある場合でない限り、信用性は肯定されません。仮に、特定の供述に誘導するような方法がとられたことが後の公判で明らかになれば、もともと合意に基づく供述は裁判所において警戒心を持って受けとめられることと相まって、その供述の信用性については回復しがたい疑念を持たれることとなります。
林刑事局長は、日本版司法取引(協議合意制度)においては、「合意内容が記載された書面が、当該他人にも、また裁判所にも必ずオープンにされて、その場で供述の信用性が厳しく吟味されること」を強調している。この林刑事局長の答弁からも、今回のように、制度が施行される前、正式な合意書など何もない状況で、特捜部が、犯罪事実を認めている被疑者を在宅、否認している被疑者を逮捕と、身柄の取扱いに差を設けるという恣意的な措置をとることなど、容認される余地は全くないのである。
2015年7月1日の日本版司法取引導入についての衆議院法務委員会の参考人質疑で、私は、次のような指摘を行っている。
もともと、公訴権を独占し、訴追裁量権を有する検察官は、起訴猶予処分を行う裁量とか、あるいは独自捜査における事件の立件の要否の判断についての裁量に関して、さまざまな形で、検察に極めて協力的な一部のいわゆるやめ検弁護士などとの間で、不透明な形の事実上の司法取引のようなことが行われてきた実情があったと私は認識しております。そういうものを排除していくためにも、司法取引を透明な形で導入することには意味があると考えております。
しかしながら、今国会に提出され、現在審議されておりますこの協議・合意制度の導入に関しては、私は、日本の刑事司法制度の特性、そしてこの美濃加茂市長事件での対応に象徴される検察の現状に照らして、幾つかの点で重大な危惧感を持たざるを得ません。
先ほど来、高井参考人、川出参考人から実務的、そして制度的な観点からいろいろ述べられたこと、それ自体は私も全くそのとおりだと思います。しかし、99%の事件がそのようにしてこの制度が適切に運用されていくとしても、私は、現状を考えると、残りの1%に、とりわけ検察のメンツにかかわるような重大な犯罪について大きな問題が生じるおそれがあるというふうに感じております。そういう私の懸念について具体的に申し述べたいと思います。
まず、基本的な観点からの二つの懸念のうちの一つは、日本の刑事司法と米国の刑事司法との違いであります。
米国の刑事司法というのは、一言で言うと機能的な司法であって、目的実現のために最大限の効率、効果を追求する司法であります。一方、日本の刑事司法は、一言で言うと正義系の司法とでもいいましょうか、あくまで実体的真実の追求にこだわります。このような違いが、実際に制度面で大きな違いにつながっているんじゃないかと思います。
米国で一般的な自己負罪型司法取引の導入が見送られたのも、こういう根本的な考え方の違いがあるからじゃないかと思います。そのような違いを前提にすると、日本への司法取引の導入には、制度面でさまざまな配慮が必要になるのじゃないかと思います。
そして二番目に、検察の組織の特色であります。
行政官庁でありながら独立性を尊重される特殊な組織である検察。日本の検察は、情報開示責任、説明責任を負わず、組織における決定は自己完結します。ある意味ではガバナンスが働きにくい組織の典型であり、特に重大事件に関しては、個人の判断よりも組織の論理が優先される傾向にあります。
法曹資格者の集団として人材の流動性があり、検事であっても一法律家としての良心を中心に職務を行う米国と、組織の論理がどうしても重大事件において中心になってしまう日本との間では、かなり大きな違いがあるのではないかと思います。
そういう意味で、米国と同様の制度を導入するに当たっても、日本的刑事司法や検察のあり方のもとでは、別個の観点からの検討が必要だと考えられます。
この参考人質疑において、日本の刑事司法制度・検察制度の下で「他人負罪型」に限って司法取引を導入するという制度の導入が、検察の対応如何では重大な危険を生じさせる懸念を指摘したが、その懸念は、制度の導入前の現時点で、早くも現実のものになっているのである。
編集部より:このブログは「郷原信郎が斬る」2018年3月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は、こちらをご覧ください。