埼玉県埋蔵文化財調査事業団は9日、蓮田市の「新井堀の内遺跡」にある、戦国時代の武士の館跡で、15世紀前半の常滑焼の大甕に入った大量の埋蔵銭が出土したと発表した。中国から輸入された銅銭が約26万枚入っている可能性があり、一つの甕に納められた量としては国内最大級の埋蔵銭となる可能性がある。確認できただけでも19種類あり、永楽通宝が多かった(日経、毎日、NHKなどの記事より引用)。
当時の貨幣の貯蓄法としては、もちろん銀行などはなかったことから、このようなかたちで貯蔵されていた。しかし、それにしても大量のタンス預金となるが、伝承によるとこの館跡の戦国時代の主は岩付城主・太田資正の家臣・野口多門とされている。
岩付城主・太田資正はその後、北条氏に通じた嫡男に岩槻城を奪われ、常陸の佐竹義重を頼って客将となり、片野城を与えられたとされている。片野城は比較的我が家からも近いところで、どこか親近感を覚える。果たして家臣の野口多門はどちらに付いたのかはわからないが、それにしては大量の資金を保有していたようである。
当時の日本国内で通用する通貨は室町幕府が発行したものではなかった。銅銭の中でも明の永楽帝の時代の1411年から作られた永楽通宝(永楽銭)が、室町時代中期に大量に輸入されており、それが国内の通貨として主に使われていた。
当時の日本では貨幣経済が急速に発展していたにもかかわらず、幕府による鋳造は行なわれず、中国銭貨への需要が高まることになる。日本との貿易のために永楽通宝が鋳造されることになったのである。永楽通宝を中心とする明銭は当初、貨幣として受け入れられなかった。このため室町幕府は明銭の使用を奨励した撰銭禁止令を公布するなどしていた。
銅銭の質的な劣化や、渡来銭を真似て鋳造され私鋳銭の流通も増大し、15世紀後半以降、銭貨をその質的優劣にしたがって良銭と悪銭に区分し、悪銭については受け取りを拒否したり、もしくは割り増しをつけて受け取るという「撰銭(えりぜに)」という行為が行われるようになっていた。
ただし、永楽通宝そのものは質が良く、関東地方を中心とする東日本では、素材価値が安定的で形状や品質がほぼ一定していたことで基準銭貨として使われるようになっていた。今回の甕のなかの通貨に永楽通宝が多かったのはこのためと思われる。
唐や宋の時代の古銭を貨幣として重視していた西日本では、明では貨幣としても通用していなかったことから永楽通宝はあまり使われなかった。しかし、16世紀半ばから次第に永楽通宝の地位が高まり、全国的に永楽通宝が基準貨幣として普及していった。
そして、貨幣による経済の発展を強く意識した武将が織田信長であり、その旗印に貨幣(永楽通宝)の図柄を取り入れたのである。
編集部より:この記事は、久保田博幸氏のブログ「牛さん熊さんブログ」2018年3月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。