木村草太教授の学説は憲法学界を代表しているのか

篠田 英朗

テレビ朝日「報道ステーション」より:編集部

米・英・仏3カ国が、ダマスカス近郊の施設に攻撃を行った。米国による昨年の4月の攻撃の際、ブログで書いたことだが、国連憲章2条4項の武力行使の一般的禁止により、この攻撃にはjus ad bellumの国際法の観点から違法の推定がかかる。だが化学兵器による一般市民の犠牲(明白な国際人道法[jus in bello]違反)への対応の正当性は論点になる。シリアについては、管轄権を持つ国家の政府が市民を保護する「意図または能力を持たない(Unwilling or Unable)」状況にあるとみなされてきたことも、関係してくるだろう。

ところでこうしたアメリカの軍事行動を見て、あらためて思い出すのが、木村草太教授である。ここ数日で2回、『中央公論』における木村草太教授の「メディアにもてはやされている極端な意見を言う人」を突き放そうとする発言について、ブログでふれた。その都度、匿名の方々に、ブログのコメント欄で、色々と教えていただき、初めて知ったこともあった。

例えば、木村教授によれば、日本国憲法には軍事に関する規定がないので「軍事権」なるものを持っていないが、アメリカ合衆国憲法は軍事に関する規定があるので「軍事権」というものを持っているのだという。そこでアメリカは集団的自衛権を行使できるが、日本はできない(ただし個別的自衛権は行使できる)、といった差が出てくるのだという。木村教授は、このことを日本国憲法における「軍事権のカテゴリカルな消去」と呼び、この「軍事権」なるものの消去によって、行政権である個別的自衛権は合憲だが、「軍事権」である集団的自衛権は違憲になる、と説明するそうだ。

新奇な理論だ。「軍事権」という概念それ自体が聞いたことがなく、内容も不明だ。しかし憲法学会の新しい通説なのか。インターネットで検索をかけてみると、結構な人々が「憲法学には『軍事権のカテゴリカルな消去』という通説があり、だから集団的自衛権は違憲なのだ」と主張したり解説したりしていることがわかった。木村教授自身に、弁護士、さらに運動家のような方々が多かった。ただし、木村教授以外の学者の方は見つからなかった。

木村教授は、自身のツィッターで、西村裕一・北海道大学法学研究科教授(憲法学・東京大学法学部出身)が、この学説を標榜していると説明し、憲法学界で広範に支持されているかのように語っている。

そこでツィッターで参照されている『自治体法務検定テキスト』を見てみることにした。
憲法学界では、新しい学説を『自治体法務検定テキスト』(!)といった媒体で発表説明するのか…と思いつつ、西村論文を探してみた。しかし『自治体法務検定テキスト』に、該当していると思われる西村論文というものはなく、見つかったのは、石川健次・東京大学法学部教授編集の「第1章憲法」の中にある「木村草太・西村裕一」連名の「第3節立法と行政と司法・1政治の領域と法の領域」という節における次のような文章であった(35-36頁)。

「統治の基本プログラムを決定する作用を、執政とよびます。….外交や軍事に関する基本決定は、伝統的には執政権をもつ君主の専権事項だとされてきましたが、これらは執政作用の典型だといえるでしょう。…….憲法65条にいう「行政権」には、法律の執行権限(狭義の行政権)に加え、執政権も含まれると解すべきだとする議論も有力です(執政権論)。…….議会の統制能力に対して不信感が存在する場合には、執政権を国家作用からカテゴリカルに削除する規定が憲法に置かれることもあります。例えば、日本国憲法は軍事作用について沈黙していますが、これは戦前への反省に基づく自覚的な決断であると理解するべきでしょう。すなわち、「統帥権の独立」を定める大日本帝国憲法下においても、軍の編成権に関わる軍政については帝国議会の統制下に置くことが試みられました。しかし、戦前の議会政治は、統帥権干犯問題に見られるように、軍部に対するシヴィリアン・コントロールを自ら放棄することによってその信頼を失うことになります。そのため日本国憲法9条は、軍事的な権力体系をカテゴリカルに消去することによって、軍事作用における執政権の統制を図ろうとしたと考えることができます(参照、石川健治「前衛への脅迫と正統からの離脱」憲法問題8号(1997年)105頁以下)。

『自治体法務検定テキスト』におけるこれだけの文章だけで、本当に憲法学界に「軍事権」なるものについての学説がある、という理解をするのは、躊躇する。ましてこの「執政権の統制」について語っている文章が「集団的自衛権は『軍事権』で個別的自衛権のように行政権ではないので違憲」という結論を導き出すための根拠になるというのは、よほどの想像力を駆使しなければ無理であるように感じる。しかしこれ以上の叙述はなかった。

そこで参照文献とされている石川健次・東京大学法学部教授の「前衛への脅迫と正統からの離脱」なる題名の1997年論文を見てみた。そこには確かに日本国憲法において軍事に関する規定がないことについてふれている箇所が2ページ弱ほどあり、それは戦前の統帥権干犯問題などが影響しているのだ、といった叙述があった。しかし論文それ自体は、ヘーゲルやリオタールやヴィトゲンシュタインらが次から次へと飛び出しくる思想の論文であり、問題となるはずの箇所も、率直に言ってかなり小説家風のロマン主義的叙述の読み込みであり、およそ「カテゴリカルな軍事権の消去」なるものを実定法上の論点として検討した形跡のあるものではなかった。そして「軍事権」なる概念の説明がなかった。集団的自衛権違憲論の説明もなかった。それどころか石川教授は、自衛隊の創設によって憲法の意図が壊されたかのように述べるので、個別的自衛権だけは合憲だという議論がどう導き出されるのかも不明だ。

どういうことなのか。インターネットで検索すると、すでに「集団的自衛権の違憲性を証明する憲法学会通説である『カテゴリカルな軍事権の消去』」というものが、人口に膾炙している。だがその論理や根拠はもちろん、出自すら不明瞭だと言わざるを得ないのが実情だ。

今の日本には、各大学の予算削減や少子化などにより、長年にわたって堅実で意義深い研究をして学界にも貢献しながら、なかなか常勤職につけず、30代・40代にまでなってしまう人までたくさんいる。彼らは、今時ではあまりに学者っぽ過ぎ、見栄えが悪く、しゃべり方が不器用なのだ、ということなのかもしれない。まあそういう時代だからこそ…、ということなのかもしれないが、時には全く違う世界もあるものだ、とつくづく感じる。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年4月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。