白井聡氏の近刊『国体論:菊と星条旗』は、前著『永続敗戦論』と同様に、特に学術的に新しいという要素はないが、全体が一つの檄文であるかのような力強さを持っている。
日本はアメリカに支配されている! 対米従属論者に支配されている! 立ち上がれ、日本! というメッセージである。このメッセージの単純さから、大変によく売れているようだ。
『永続敗戦論』の中で、白井氏は、次のように言っていた。
「私は歴史学者ではないから、本書において新しい歴史的事実の提示を行うわけではない。その代わりに私は、われわれが歴史を認識する際の概念的枠組み、すなわち「戦後」という概念の吟味と内容変更を提示する。・・・それが果たされるとき、われわれはこの国の現実において何を否定し、何を拒否しなければならないのかについて、明確なヴィジョンを得ることになるであろう。」(白井聡『永続配線論―戦後日本の核心』[太田出版、2013年]、34頁)。
そこで白井氏は、明確に、アメリカを否定せよ、アベを否定せよ、と唱え続ける。
白井氏自身も認めると思うが、『永続敗戦論』も『国体論』も、アジテーションの書である。未来に向けた政策的指針もない。ただ、アメリカとアベを否定することの必要性が、壮大な物語と共に、繰り返し語られる。
白井氏は、戦前の天皇制の「国体」が、戦後はアメリカ従属の「国体」になった、と論じる。だから、アメリカとアベを否定しなければならない、と結論づけ、繰り返し煽情的な表現で補強する。
私も、拙著『集団的自衛権の思想史』で、戦後日本の「表の国体」が憲法9条で、「裏の国体」が日米安保だ、と論じた。ただし私は、戦後日本では日米同盟が国家体制の重要要素になった、と言っただけだ。それに対して、白井氏は、大真面目に戦前の「国体」が、戦後の対米従属「国体」になったのだ、と主張するのである。
アメリカが占領統治に天皇を利用したことは、周知の事実である。だがだからといって、白井氏の特異な主張が裏付けられるわけではない。しかも誇張の度合いが甚だしい。
(たとえば1959年砂川事件最高裁判決の前に、田中耕太郎最高裁長官と米国大使が接触したことをとりあげて、アメリカが田中に「圧力」をかけた、そして田中長官が「おもねった」、と白井氏は描写する[『国体論』158頁]。これは間違った記述だと言わざるを得ない。白井氏は、矢部宏治氏の本を根拠としているが、矢部氏は布川玲子・新原昭治両氏の著作を参照して脚色しているだけである。
田中耕太郎に関する布川・新原両氏の研究は、布川氏とジャーナリストの末浪靖司氏が米国国立公文書館で入手した公電資料にもとづく。それは、当時の駐日米国首席公使や大使が、共通の知人宅などにおける田中長官との私的会話を通じて、公判のスケジュールを調査した結果を、報告しているものに過ぎない。判決内容の行方については、米国大使も推察をしているだけであり、田中長官が実質審理内容について私的会話でも漏らしたというほどのものではない(布川・新原『砂川事件と田中最高裁長官』[2013年])。白井氏は伝言ゲームのような形で、話を「盛って」いるのだが、孫引きならぬ孫描写のような文章で「盛りながら」本を書き進めていると言わざるを得ない。)
白井氏の戦前の日本思想史の描写は、大学学部生向けの教科書で使えるようなオーソドックスなものである。もっともだからといって白井氏の叙述に疑念の余地がないわけではない。「国体」概念は、実際には多層的な複雑性を持っていた、と考えるのが、普通の学術的姿勢である(たとえば山口輝臣「なぜ国体だったのか?」酒井哲哉(編)『日本の外交第3巻外交思想』所収を参照)。重層的な戦前の日本の「国体論」の思想史が、実は単一ものであり、そして戦後の日本史との完全なアナロジー関係を持っているという主張は、一つの政治運動演説としては面白いが、学術的な論証をへたものだとは認められない。
たとえば私が「裏の国体」が日米安保だ、と言う時の意味は、戦後の国家体制の根幹の一つが日米安保だ、ということである。しかし白井氏は、真面目に戦前と戦後のアナロジーを主張したうえで、「戦前の国体が崩壊したのと同じように、戦後の国体も崩壊する」、といった予言者めいたセリフを繰り返す。理由は、明治維新から77年で1945年の戦前の国体の崩壊になったので、戦後の国体も1945年から77年目の2022年に崩壊するはずだから、だという。
白井氏によれば、足し算だけできれば、誰でも未来が予測できる。ただし、2022年に戦後の国体が崩壊するとき、具体的には何が起こるのかは、不明である。不親切にも、白井氏は何も教えてくれない。ただ、仰々しいアジテーションの言葉を並べていくだけである。
「日本は独立国ではなく、そうありたいという意思すら持っておらず、かつそのような現状を否認している・・・。本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという不愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。本物の奴隷は、自分自身が哀れな存在にとどまり続けるだけでなく、その惨めな境涯を他者に対しても強要するのである。深刻な事態として指摘せねばならないのは、こうした卑しいメンタリティが、「戦後の国体」の崩壊期と目すべき第二次安倍政権が長期化するなかで、疾病のように広がってきたことである。(297-298頁)
「お前は奴隷になっている、今すぐ反抗を開始せよ」、と言われて駆り出された人々が、政策目標もないままに現状否定の行動だけに駆られても、あまりいいことはないのではないか、という気持ちを、私は抱く。しかし、白井氏から見れば、そんな反米運動に立ち上がりもしない私のような者こそが、否定すべき「奴隷」だ、ということになるのだろう。
白井氏のアジテーション活動の意図を理解するためには、白井氏の遍歴を見てみることが、近道である。白井氏は、もともとレーニンの研究で博士号を取得した人物である。最初の著作も20世紀前半の思想的文脈を再現しつつ、さらに現代思想の成果も取り入れて、レーニンの唯物論を蘇らせようとするものだった。
アジテーションを繰り返し、秋葉原駅で「アベやめろ」と叫んで首相の演説を妨害する白井聡氏とは、いったい誰なのか?と言えば、つまりレーニン主義者である。白井氏のアベ否定・アメリカ否定の政治運動は、レーニン理論の応用だと言える。それは白井氏の次のような記述を見ていくと、判明してくる。
「つぎのような議論がしばしばなされる。すなわち、レーニンの致命的な欠点として、彼が自律的な道徳の尺度を持たず、すべての価値判断を革命の大義に従属させたために、さまざまな「秘密」の事業に手を染めることになった、というものである。だが、ここで指摘されるべきは、レーニンが「すべての価値判断を革命の大義に従属させた」ことは何ら「秘密」でも何でもなく、レーニンが公言しつづけたことにほかならないということである。・・・近代資本制にもとづいて成り立っている社会(それは歴史的に「ブルジョワ社会」と呼ばれ、いまわれわれが生きている社会でもある)の特徴は、階級闘争が隠蔽されるところに存する。マルクス主義が主張するところによれば、政治的なものの本質は階級闘争に存するが、それが真実ならば、ブルジョワ社会とは、この基本的真実を忘れたふりをすることによって、あるいはそのようなものは存在しないと言いつのることによって、言いかえれば、政治的なものの隠蔽によって、社会に内在する敵対性を隠蔽することによって成り立っている。まさにこのことが、通常の政治が抱えている巨大な「秘密」であり、社会に根源的敵対性が内在的に存在することを告白することとは、共同体の不可能性を告白することにほかならない。」(白井聡『未完のレーニン:<力>の思想を読む』[2007年]、20-21頁)
白井氏は、レーニンの『国家と革命』を、「祝祭的時間性」の狂気という言い方で描写する。それは、「過去・現在・未来の連続した流れとして通常われわれが対象化するような時間ではない・・・質の違った時間性が祝祭のように其処に現前している」狂気である。(白井『未完のレーニン』216頁)
レーニンの『国家と革命』は未完に終わった。なぜなら最終部分を執筆中に、いよいよロシア革命が勃発する情勢になったからだ。レーニンの理論は、レーニン自身が指導する革命によって実践された。白井氏は言う。「祝祭の存在を最終的に確証しているのは、あの最後の不在のページにほかならない。なぜなら、そこではテクストの作者は姿を消し、描かれてきた<力>そのものが筆を取っているからである。」(同上)
白井氏は、さらにレーニン『国家と革命』の解説において、次のように述べる。
「われわれは一度でも、こう考えてみるべきなのだ。すなわち、ロシア革命の失敗は、われわれが責めを負うべき事柄なのではないか、と。あるいは、もっと正確に言えば、ロシア革命の失敗が失敗であるがままにとどまっているのは、ほかでもなくわれわれのせいなのではないか、と。・・・果たして、われわれはわれわれ自身の義務を果たした上で、レーニンの革命を批判しているのか? レーニンの革命は、いつか再び社会主義革命が世界的理念として<力>を獲得しない限り、挫折した呪わしい革命として永久にあり続けるほかない。その理想を救済することができるのは後に来る者たちだけであるとすれば、『国家と革命』に出現した革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない。・・・自由な精神は、大いにレーニンを批判すべきである。ただしそれは、われわれが、われわれの時代が、レーニンの革命よりももっと偉大な革命を成し遂げるとき、その革命そのものによって行われるのである。・・・日本では、三・一一の地震が原発震災と化したことをきっかけに、政・官・財・学・マスコミの形づくる腐敗した支配の構造が、白日の下にさらされつつある。要するにそれは、日本における革命の必要性を突きつけた。・・・『国家と革命』はもう一世紀近くもの間待ち続けている。書かれなかったあの最終章が、われわれの手によって書かれる日を、待ち望んでいるのである。」 (白井聡「解説 われわれにとっての『国家と革命』」、レーニン(角田安正訳)『国家と革命』[講談社学術文庫、2011年]所収、277、279-280、283-284、285-286、289頁)
白井氏は、「革命家」だ。それは「何ら「秘密」でも何でもな」い。白井氏がレーニン主義者である、ということを思い出すだけで、十分である。
白井氏の『国体論』は、いったいどのような「革命」に、われわれを連れていこうとしているのか?それは、全く本質的に、不明である。しかし、はっきりしていることもある。白井氏が目指しているのは、そのあたりに転がっている低次元のアベ否定のようなものではない、ということだ。白井氏が目指しているのは、本物の「革命」である。
編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年6月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。