セルビアの人たちでクロアチアの応援をすべきか論争があるそうだ。なにしろ、セルビア語とクロアチア語の違いはキリル文字かローマ字かどっちで書くかだけなのだ。
そこで、FIFAワールドカップ決勝を楽しむためにも、旧ユーゴスラビア諸国の歴史をおさらいしましょう。拙著「世界の国名地名うんちく大全」(平凡社新書)からの抜粋です。
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第一次世界大戦は現在はボスニア・ヘルツェゴビナの首都となっているオーストリア領サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されたことで始まったと理解している人が多い。厳密にはこの言い方は正確でないのだが、それはあとで説明する。
トルコ語で「樹木の覆い茂った山々」を意味するバルカン半島は、ヨーロッパの火薬庫といわれてきたが、住民のほとんどはスラブ民族である。言語もほとんど同じである。だが、歴史に翻弄されてえらく複雑なことになってしまったのである。
それを第一次世界大戦におけるセルビアの戦勝の勢いで、1918年にセルビア王を国王とするセルブ・クロアート・スロベーヌ王国が成立し、1929年にユーゴスラビア(南スラブの意味)王国となった。
第二次世界大戦では、枢軸側に立ったがクーデターで親英仏派が政権を取ったので枢軸側に占領された。だが、クロアチア人のチトーを首領とする左派パルチザンが独力で解放を勝ち取り、非同盟政策と労働者自主管理で独自路線を歩み冷戦時代には世界から称賛を浴びた。
チトーは連邦維持のために少数民族を優遇し、セルビア人を抑えたが、チトーの死後は「セルビアのムッソリーニ」といわれたミロシェビッチが中央集権をめざして対立が深まり、冷戦終結を受けてドイツが後押ししたこともあってクロアチア、スロベニア、マケドニアは1991年、ボスニア・ヘルツェゴビナは92年に独立した。
しかし、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア系住民が分離に反対して悲惨な内戦が繰り広げられた。さらに、2006年になってモンテネグロがセルビアとの連邦から離脱、コソボも2008年に独立を宣言した(ロシアなどの反対で国連加盟は未承認)。
それぞれの国のルーツと民族の違いは、単純なことである。宗教で言えば、セルビア、モンテネグロ、マケドニアでは多数派はギリシャ正教、クロアチアとスロベニアがカトリック、ボスニア・ヘルツェゴビナとコソボがイスラムである。言語はコソボがアルバニア語だが、残りはスラブ語系、ただし、マケドニア語むしろブルガリア語に近い。
そして、スロベニアとクロアチアの違いは、スロベニアが神聖ローマ帝国の範囲内で、クロアチアは域外で、それと関連するがスロベニアはオーストリア・ハンガリー二重帝国のなかでオーストリア側で、クロアチア(ダルマチア以外)はボスニア・ヘルツェゴビナとともにハンガリー側だった(従って、サラエボで暗殺されたのもハンガリー皇太子であってオーストリア皇太子ではないということになる)。
また、モンテネグロはオスマン帝国に完全に吸収されてしまったことがなく、半独立国として維持され続けたことがセルビアと違う。さらに、ボスニア・ヘルツェゴビナやアルバニアでイスラム教徒が多いのは、民族的な問題でなく、これらの地域ではスラブ人やアルバニア人のイスラムへの改宗が多かったことの反映だ。彼らは、オスマン帝国内において支配層として重要な地位を占めたのである。
セルビア共和国
セルビア語 レプブリカ・スルビヤ
スラブと同じく「奴隷」が語源とされることが多いセルビア人は、7世紀ごろこの地に移り、9世紀にギリシャ正教徒を受け入れた。12世紀に東ローマ帝国から独立したが、1389年のコソボの戦いののちオスマン帝国領となった。1878年のベルリン条約で正式に独立し、ユーゴスラビア設立の中核となった。
ドナウ川に面したベオグラードは「白い城塞都市」の意味である。
クロアチア共和国
クロアチア語 レプブリカ・フルヴァツカ
フランス語でネクタイのことをクラバットというが、これは、クロアチア人傭兵のファッションから来ている。ただし、国内ではフルヴァツカという。
首都ザグレブは「堀の後ろ」の意味で、ゴシック建築が美しい古都で京都の姉妹都市になっている。アドリア海沿岸地方はダルマチアと呼ばれダルメシア犬の故郷らしい。旧ベネチア領の城塞都市ドゥブロヴニク(イタリア名ラグーサ)はこの地方にある。
スロベニア共和国
スロベニア語 レプブリカ・スロヴェニヤ
スラブと同じ語源でないかと見られている。首都リュブリャナはドイツ語でライバッハ。オーストリア風の町だ。石灰岩が多く「カルスト地形」の名もこの国の地方名に由来する。
ボスニア・ヘルツェゴビナ
ボスニア・クロアチア語 ボスナ・イ・ヘルツェゴビナ
ボスニアは川の名前(「清い川」の意味らしい)で、ヘルツェコビナは軍司令官という言葉に由来する。首都サラエボでは1984年に冬季オリンピックが開催された。「サライ(館)」がある広い土地を意味する。
モンテネグロ
セルビア語 ツルナ・ゴーラ
「黒い山」を意味するツルナ・ゴーラが現地読みだが、イタリアのベネト方言によるモンテネグロで国際的には知られている。ポドゴリツァ(旧称チトーグラード。ゴリッツァの丘の下)に首都機能があるが、古都ツェティニエを憲法上の首都とする。
コソボ共和国
アルバニア語、セルビア語等 レプブリカ・コソブス
ツグミの一種のクロタドリに由来する。歴史的にはセルビア建国の地だが、1389年にオスマン帝国軍と戦い、敵のムラート1世を戦死させたものの戦いには敗れてので、セルビア人たちは追放され、そのあと入植したのが現在の多数派であるアルバニア人である。首都プリシュティナは中世におけるセルビア王国の首都である。
マケドニア旧ユーゴスラビア共和国
英語 フォーマー・ユーゴスラブ・リパブリパブリック・オブ・マセドニア
古代のマケドニア王国は、自らをギリシャ人であると主張しオリンピックにも参加を認められていたが、一夫多妻など独自の社会構造を持つ存在だった。しかし、フィリポス二世の時に長槍(サリッサ)軍団の活躍によりギリシャ世界の指導者となった。
このフィリポスは英仏におけるフィリップというありふれた名前の起源である。このようなギリシャ系起源の名前というのは西欧では珍しいのだが、これは、キエフ大公の娘をフランス王アンリ一世が妃とし、その子がフィリップ1世を名乗ったことに始まる。。
フィリポスは東方遠征を目前にして暗殺されたが、その子のアレクサンドロス大王はアケメネス朝ペルシャを倒して大帝国を築いた。その分裂ののち、マケドニア王国も細々と存続したが、紀元前168年にローマに滅ぼされた。
中心都市のテッサロニキ(ラテン語ではテッサロニカ、英語ではサロニカ)は、アレクサンドロス大王によって建設され、のちに彼の異母姉妹の名にちなみ命名された。東ローマ帝国では帝国有数の都市として栄え(ビザンツ洋式の教会群が世界文化遺産になっている)、スラブ人への布教やキリル文字のもとになったグラゴル文字の創始者としてして知られるキュリロスとメトディオスの兄弟もここで生まれた。
だが、そののち、オスマン帝国時代まで含めてスラブ人のこの地域への侵入も盛んで、1878年のサン・ステファノ条約ではその大半がブルガリア領とされたこともある(テッサロニキはオスマン帝国に留まった。(テッサロニキはオスマン帝国に留まった。トルコ近代化の父であるケマル・アタチュルクもここの出身)。
そののち、1913年にテッサロニキを含む南部はギリシャ領として確定したが、北部はユーゴスラビア領となり、第二次世界大戦後はその枠内で人民共和国となった(マケドニア語はブルガリア語とほぼ同じである)。
ところが、ユーゴ解体のなかで、1991年に独立したが、南部マケドニアへの領土要求などを恐れたギリシャからマケドニアという名称の使用を抗議され国際的な認知の障害となった。マケドニア側でも国旗に古代マケドニアに因む「ベルナの星」を使っていたのをやめるなど一定の譲歩をしているがギリシャ側は国名の変更を執拗に要求している。
国連への加盟はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国で認められており、日本の外務省もこの名を使っている。
首都のスコピエはローマ時代にスクビと呼ばれ、セルビア帝国の首都だった時代もある。1963年の地震で壊滅し、丹下健三のプランによって再建された。同国の人口の二割はアルバニア人で、ノーベル平和賞をとったマザー・テレサはオスマン帝国時代の1910年にユスキュブと呼ばれていたこの町で生まれたアルバニア人である。