『現代ビジネス』さんに、砂川判決に関する拙稿を掲載していただいた。
日本の憲法学者が分析したがらない「砂川事件の3つの神話」を検証
1959年砂川判決については、このブログでも何度か取り上げた(『長谷部恭男教授の「砂川判決」理解を疑う』等)。それにしても、60年近くたって、なお論争の対象になっているというのは、大変なことだ。日本人の多くが、いまだに砂川判決で何が語られたのかを、わかっていないということだ。
憲法9条の問題を扱った比類なき判例である。その例外的な性格は、本質的な意味において、砂川判決が、憲法学だけの問題にとどまらない内容を持っていること示している。
といっても、私は、判決内容が、法的問題だけでなく、政治的問題にかかわっている、といったことは強調したいとは思わない。確かに、日米安保条約の問題には高度な政治性がある。ただし、だからといって判決の内容が法的なものでなくなるとは思わない。それは、本質的な問題ではない。
気づいておくべきなのは、本来、最高裁判所というのは、憲法学だけの審査を入れるものではない、ということだ。もちろん憲法の観点からの審査は、必須だ。だが、だからといって、唯我独尊で「憲法優越説」の学説だけを手掛かりにして判断をくだすことが、最高裁の仕事だということにはならない。むしろ、たとえば前文の国際協調主義の精神や、憲法98条2項の条約遵守義務をふまえるならば、国際法の体系をふまえて、憲法判断を下すべきであることは、当然だ。
個別的自衛権と集団的自衛権は、国連憲章51条において結び付いている。それだけではない。国連憲章7章において、個別的・集団的自衛権は、集団安全保障と体系的な関係を持って、位置づけられている。
「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権は違憲だ」、「集団安全保障を認めても集団的自衛権を認めたことにはならない」、という主張は、大変な主張なのだ。相当な論証義務が、主張する側にあるのだ。
「日本では憲法学者の多くがそう考えているから…アンケート調査をすればわかります…」といった理由で、「集団的自衛権だけは異物です」といったエキセントリックな主張を、自明視することはできない。アンケート調査にしたがわなければ立憲主義の破壊だ、といったレトリックを使っても、それは本質的な議論ではない。
砂川判決は、そうした基本的なことを思い出すために、とてもよい題材だと思う。
編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年8月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。