長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産がユネスコの世界遺産に指定されたことによって、再び先んじて世界遺産となった軍艦島(長崎県端島)などでの朝鮮人労働が話題となっている。戦時の朝鮮人動員が、強制連行か否かという議論があるためである。
1930年代末に募集形式によって朝鮮人を労働力として日本本土と連れてくることが制度化され、官斡旋、徴用と形を変えながら終戦まで行われた。これは、1930年代までに大量の朝鮮人が日本本土へと出稼ぎに来ていたため、その延長線上に、日中戦争の進展による労働力不足を解決する政策として実行されたものである。いわば2年間の出稼ぎの制度化であった。
実行初年度の1939(昭和14)年度は朝鮮半島の天候が非常に悪くて(日照り)、農業生産は前年度の6割という惨憺たる状況であった。そのため朝鮮半島で農業をしていても生活できず、次々と日本への出稼ぎを希望する者があらわれた。こうしてこの政策は上手くいくかのようにみえた。
ところが天候が平常時に戻った1940(昭和15)年度から、早くも状況は転じていく。日本の朝鮮統治では半島北部での工業開発が早くから行われていた。それに加えて半島中南部の開発も次第に行われはじめていた。そうした中で、朝鮮人たちはわざわざ日本へ行かなくても、朝鮮半島内で出稼ぎをしたいと思うようになっていたのである。
しかし日本本土でも朝鮮人労働力へのニーズは高まっていた。そのため日本での労働環境や条件などをクローズにしたまま、または嘘をついて、まるで理想の職場かのように錯覚をさせながら日本へと連れて来る事態が発生しはじめた。実際の職場は、炭鉱・鉱山など地下での労働や、土木現場などの過酷な肉体労働も多かったのだが。
勿論、中には紹介どおりの理想的な職場もあった。日本人と同じように扱われた職場もあった。しかし一方で、日本人も同じく過酷な労働条件で働いていたために、そのストレスの発散先として朝鮮人労働者が遇されることも多くあった。暴行も頻発した。こうして2年間を待たずして朝鮮半島へ帰る者や、日本本土内でより良い職場を探して逃亡する者も多発した(当時は、日本人もよく逃亡していた)。1943(昭和18)年度にかけてこのような状況が推移していく。
戦争末期の1944(昭和19)年度、1945(昭和20)年度前半は、出稼ぎをしたくない者までも農村から連れ出さないと、達成されない計画が作られた。戦争が最終局面に進むに従ってより多くの日本人が徴兵され、労働力が圧倒的に不足するようになってしまったからである。しかし、1945(昭和20)年5月31日の次官会議で、興味深い議論がなされている。なんと、朝鮮人労働者を厚遇することで、出稼ぎ期間の2年間を超えても日本で働いて貰えるように更なる制度作りがされたのである。
つまり1940年代には、朝鮮人労働者たちにとって、朝鮮総督府によって工業化が進む半島内での出稼ぎが魅力的な選択肢として登場していた。しかしながら出稼ぎの制度化というメカニズムをひとたび構築した日本側は、それが明らかに失敗した後までも、その微修正によって制度を維持しようとした。そしてその矛盾は、現場レベルでの詐欺まがいの斡旋・仲介が横行するという形で表にあらわれてしまったのである(同じような構図は、現在の外国人研修制度や技能実習制度などにみられる)。
いうなれば、戦時の朝鮮人労働というのは、日本の動員計画の大失敗という政策レベルで語られるべき問題である。この官僚の政策立案の失敗という現実を直視しないために、韓国側からは日本が計画的に朝鮮人労働者達を強制連行したと位置付けられ、国際的に喧伝されてしまっているのである。
現在の日本で官僚の無謬性(間違いを犯さないこと)を信じている者など誰もいないであろう。官僚の無謬性など捨て去り、政府が戦時中の政策の失敗を認めることこそ、強制連行という汚名を晴らす最上の方法なのではないであろうか。
そして、そのような政策の失敗にかかる補償問題は、1965(昭和40)年の日韓基本条約で解決済であることは論を俟たない。
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宮地 英敏 九州大学記録資料館准教授
東京大学文学部卒業、同大学院経済学研究科修了。博士(経済学、東京大学)、専門は日本経済史・日本経済論。
共著『近代日本のエネルギーと企業活動』日本経済評論社、など。