百田尚樹「万世一系否定論」のここが間違い

「日本国紀」で百田尚樹が万世一系を称揚しながら継体天皇について王朝交替を否定したことについては、私も「百田尚樹「日本国紀」:意外に戦後史観的で韓国に甘い」で指摘したが、保守論壇はもとより、菅野完からは、「かくて、百田尚樹 @hyakutanaoki さんは万世一系を否定されました。みあげた売国奴ですな。極左テロリストだわ」といわれるし、リテラは「百田尚樹『日本国紀』の無知と矛盾にネットから総ツッコミが!同じ本なのに主張がバラバラ、監修者降板騒動も」と大喜びだ。

Amazon著者ページより:編集部

私は「万世一系」という表現を使うかどうかは別として、日向からやってきた神武天皇とのちに呼ばれることになる武人が建てた小国を、その数世代あとの子孫である崇神天皇が大和国を統一し、さらに吉備や出雲を服属させ、その玄孫である仲哀天皇のときに北九州を服属させて成立した統一国家の王者が現皇室まで男子男系で継続しているということは、特に、不自然なものではないと主張してきた。

記紀の内容は、古代の王者達の長すぎる寿命を別にすれば、系図も事跡もさほど不自然なところはなく、信頼性は高いということが、中国や韓国の史書や好太王碑などからも明らかであるし、考古学的知見からも、とくに矛盾はないと考えるからである。

ところが、百田氏はなんと万世一系を否定してしまったのである。

まず、応神天皇について「敢えて大胆に推察すれば、ここで王朝が入れ替わり、その初代を表すために、「神」の文字を用いたように思える」と書いている。崇神天皇についても、神武天皇と同一人物だという説に理解を示し、応神天皇については、熊襲との戦いで戦死し王朝が入れ替わったが万世一系である方が都合が良いので粉飾したのではないかという説に説得力があるという戦後史観の左派そのものの御主張。

さらに継体天皇について、「現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を奪取すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ」という。

さらに、仁徳天皇から雄略天皇までの天皇に比定される倭の五王の中国南朝宋国への遣使については、これが信用できないといって価値を否定してしまい、「三世紀から六世紀にかけての日本の王朝のことは、今のところよく分かっていないのが実情である」と切り捨ててしまっている。

倭の五王の遣使は、日本書紀の記述がそれなりに信頼性があり、また、大和朝廷の半島支配の証拠としても重要なのになんということだろうか。これでは、菅野氏に極左テロリストとからかわれるのもいたしかたない。

それでは、このあたりについて、私の「日本と世界がわかる 最強の日本史」(扶桑新書)でどう説明してあるかと言えば、以下のようなところである。私なりに自信を持った説明だ(これは概略なので詳しくは拙著をご覧頂ければ幸いだ)。

①崇神天皇

崇神天皇の物語は、いわば零細企業の社長が上場企業にすることに成功した記憶です。大人数の組織になったわけですから、文書でなくとも細かい記憶も伝承されやすくなったわけです。

そして、神武天皇の建国物語は零細企業としての創業です。そのあとに欠史八代が続きますが、企業でも地方の旧家などでも、創業者やその地に移ってきたりした初代のことはよく伝承されていても、二代目以降はすぐに忘れられてしまいます。

戦国大名の先祖でも、織田信長の先祖が越前にやってきたとか、尾張に移った経緯は詳しく語られますが、信長に近いところは祖父くらいまでしかよく分かりません。

ですから、崇神天皇に先立つ八代について縁組みと宮のあった場所くらいしか分からなくても初代の神武天皇についての記憶が架空とは言えません。

②応神天皇と継体天皇

戦前の日本では、万世一系が当然とされていました。戦後は日本が特別な国だと思うとまた戦争を起こすのでないかと心配して、皇統がどこかで断絶した可能性を発見できないかと歴史学者たちが勝手気ままな珍説を出すようになりました。

とくに、江上波夫の「騎馬民族説」では、応神天皇が大陸からやってきた騎馬民族の首領だという東京大学教授らしくないロマンあふれる学説が唱えられました。これを小沢一郎はまだ信じていて韓国での講演で「天皇家は韓国から来た」などといって韓国人を舞い上がらせたことがありますが、トップクラスの政治家としてはお粗末の極みです。

また、九州王朝説などという突飛なものを別にしても、応神天皇(4世紀)と継体天皇(推定在位:507~531年)が新王朝を開いたと信じている人はいまも多いのです。しかし、そんなことはほとんどありえません。

まず、継体天皇は応神天皇の五世の孫と言われます。つまり、曾孫の孫です。それならもっと近い候補がいたはずと言うので、越前にあって出身地の近江や妃の出身氏族である尾張氏などを糾合して、大和の王国を倒して政権を取ったと地方連合政権的なイメージまで語られます。

しかし、そうなら、継体天皇は「日本書紀」で華々しく英雄として描かれているはずですが、およそ冴えない天皇なのですから、王朝創始者のはずありません。それに継体天皇の父の従姉妹が允恭天皇(440年頃即位)の皇后、雄略天皇の母なのですから、かなりメジャーな皇族だったのです。

応神天皇については、継体天皇が即位したときに、先に声がかかったのが、仲哀天皇の子孫で丹波にあった倭彦王です。つまり、応神天皇の子孫ではなかったのです。応神天皇と仲哀天皇に血縁がなければ、第一候補になりえなかったはずです。

それに、「日本書紀」や「古事記」のもとになった歴史の整理作業が行われたのは、推古天皇の時ですが、推古天皇は、継体天皇の孫ですから、記憶が新しい現代史の領域です。いい加減なことを書けません。

③倭の五王の上表文こそ大和朝廷の語った最古の歴史だ

日本国家の成立をあえて、神武天皇でも,卑弥呼でも、応神天皇でもなく、478年に雄略天皇(倭王武)が中国南朝へ使節を派遣したことから語り始めたいと思います。

なぜかというと、「日本書紀」や「古事記」で書かれている日本の正史と、中国の史書の内容がほぼ一致することが確認できるのがここからだからです。卑弥呼や邪馬台国は日本国家の記憶に痕跡を留めていません。

しかも、コラムでも書いたように、雄略天皇は自国の成立過程について具体的に語っています。この雄略天皇の時代の東アジア情勢を正確に知り、そこから、日本建国へ向かって遡っていくことがもっとも間違いのない理解を得られる方法なのです。

大和朝廷が自分たちの由来を語ったもっとも古い記録は、中国の南朝(宋の時代)に使いを出した倭王武(雄略天皇。460年代ごろ即位)の上表文です(478年)。

そこでは、「昔からわが祖先は、みずから甲冑をつけて、山川を越え、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のほうの海を渡って、平らげること九十五国に及んでいます」と言っています。

つまり、畿内国家である大和朝廷が、列島の中で東と西に同じくらいの地域を征服し、朝鮮半島にまで進出したとしているのです。

さらに、より詳しい説明は、「誤解だらけの皇位継承の真実 」(イースト新書)に書いてある。万世一系という言葉が後世のものであることはたいした問題でない。日本書紀は奈良時代に成立したが、正史編纂の試みは推古天皇のころに始まっており、その時代は大和朝廷の成立は近代史としてまだ記憶が薄れていない時期だったことが大事なのである。

なお、邪馬台国については、私と同じ九州説を採っており、これは妥当なところだ。

日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12
誤解だらけの皇位継承の真実 (イースト新書)
八幡和郎
イースト・プレス
2018-04-08