「日本国紀」の江戸時代観には根本的な矛盾がある

八幡 和郎

百田尚樹氏は、日本人にこの国がもっと好きになって欲しいという気持ちを強くもっておられるのだろう。その結果、『日本国紀』では、日本の歴史全体にやや甘い評価が目立つ。その結果、メリハリがつかない印象がある。

百田氏ブログ、Amazonサイト、政府サイト(江戸城址)より:編集部

それは江戸時代についてもそうで、「前時代的な文化の遅れた時代」ということを否定し経済、生活、文化の水準が高かったとされる一方で、鎖国によりテクノロジーの発展が遅れ、変化を恐れたために弊害が生じ、幕末に大きな混乱があったとしている。

しかし、鎖国によって輸入できなかったのはテクノロジーだけでない。そして、幕末の混乱は危うく植民地されかねないほど深刻なものだった。

全般的に江戸時代の政治のダメさ加減について正しく把握しているのに、その結果、惨憺たるものだった社会の状況については、妙に楽観的な江戸時代礼賛論になっている。寄せ集めの歴史観が混在しているようにも見えるが、ひとつの推測としては、江戸の町民たちの状況をもって全国的な傾向という誤解をしたからではないかということかもしれない。

そのあたりは、私が「平壌市民の生活を見て北朝鮮を論じるようなもの」と批判している、このところ人気のある歴史観に流されてしまったような気がする。

ちなみに、江戸時代の『江戸時代の「不都合すぎる真実」 日本を三流にした徳川の過ち』 (PHP文庫) や『日本と世界がわかる 最強の日本史』(扶桑社新書)での、私の江戸時代の評価は、まったく違う。

そもそも、江戸時代になるまえの豊臣時代の日本は世界最高水準の政治・経済・社会・文化を実現していた。江戸時代の初期はその遺産と普及のおかげで好調だったが、それ以降は、世界文明からどんどん遅れをとるばかりだったというものだ。

江戸時代の身分制度はフレキシブルで身分の壁は容易に越えられたように書いているが、これは珍しい認識だ。福沢諭吉が下級武士も含む下の階級から上士へ進んだのは中津藩では3世紀で数人のみというのが現実で、幕末になって少し緩んだだけだ。切り捨て御免がきわめてまれにしか行われていないなどというのも事実でない。正常な刑罰だからとくに大事になっていないだけだ。

江戸時代の教育水準の低さについては、私は次のように論じている。

①江戸時代に仮名が出来れば識字率にカウントし、中国では数千字の漢字を要求して比べても仕方ない(仮名の普及は室町時代からのことで江戸時代の功績でない)

②寺小屋の普及は幕末に近くなってから

③藩校はイスラムの進学校みたいなもので漢学だけであり九九も教えてないし学べたのは上級武士のみ、しかも、出そろったのは天保期になってから。

「日本国紀」では上記のような指摘は踏まえず、俗論として信じられている“世界最高水準”の教育という都市伝説をなぞっている。

江戸時代の交通・通信インフラについて高い評価をしているが、統一国家の確立によって江戸時代の初期に主要街道網が完成を見たのは事実であるが、それ以降は3世紀近くいっさいの発展はなく、その間に、ヨーロッパでは馬車で高速で移動できる街道が整備され、鉄道の建設も始まっていたのである。

海上交通は大型船建造禁止でむしろ退歩した。飛脚の料金の高さや不確実性は上記の私の本で紹介したところだ。江戸時代の人口の大多数を占める農民は原則旅行や移住禁止であったことの認識もされていない。

外食産業の発展が強調されているが、それは幕末に近い時期の江戸などだけのものであるし、それに先立って、中国では乾隆帝のもとで空前のグルメブームだったし、ヨーロッパでも同様だ。

江戸時代の農村の状況について、ヨーロッパなどに比べて農民が豊かで自由だったような書き方がされているが、どういう事実を踏まえているのか分からない。江戸時代には年貢がとれる米の栽培を過度に強制したために、米が過剰生産され、武士も農民も窮乏したという構造だったのである。また、鎖国によって新作物や新品種の導入が遅れたので、同時の中国などに比べても生産力は停滞していたことも踏まえられていない。

それに対して、萩原重秀や田沼意次を評価し、新井白石や徳川吉宗、松平定信を批判するなど経済政策についての評価は妥当である。

また、細かいところだが、藩という呼び名が明治になってからのものだというのは、私が広めたものだが、採り入れられていることは結構なことだ。

鎖国していなかったら英国と覇権を争っていたかもしれないという認識は私と共通だ。

一方、姓と氏と名字の使用が混乱していて、源を氏、徳川を姓としているのは間違いだ。姓は源であり、徳川はもともと名字であり、明治以降は戸籍法上の氏である。

江戸定住の定府大名を水戸徳川だけとしているが、20以上もあって間違いである。

日本国紀
百田 尚樹
幻冬舎
2018-11-12