腹というもの

一昔前は「この人は腹の出来た人だ」とか「あの人は腹が据わっている」とかと、「腹」を人の胆力や度量といったものとして人物の一つの評価項目としていました。大きな決断をする立場になればなる程、あるいは大きな決断でなくとも年が増し地位が増すという状況になればなる程、段々と腹は大事になってくるものです。

私は「腹のある人」とは、「勇気ある実行力を伴った見識を持っている人」即ち「胆識を有した人」を指して言うのだろうと考えています。拙著『君子を目指せ小人になるな』(致知出版社)にも書いておいた通り、「知識」「見識」「胆識」の定義に関しては、夫々「物事を知っているという状況」「善悪の判断ができるようになった状態」「実行力を伴った見識のこと」であります。

世の中には「言うだけ番長…言葉ばかりで結果が伴わない人」に該当するような、何か言いっ放しの「評論家」や「コメンテーター」の類は沢山います。此のカテゴリーに属する人達の中には、ある程度の知識を持って善悪の判断ができ良いことを言ったりする見識のある人もいます。しかし、少なくとも腹(胆識)があるか否かといった判定には至らない人達です。

昔から如何なる人物を良しとするかとは、例えば中国明代の著名な思想家・呂新吾(りょしんご)の『呻吟語(しんぎんご)』というにあるように、「深沈厚重(しんちんこうじゅう)、是第一等資質」「磊落豪雄(らいらくごうゆう)、是第二等資質」「聡明才弁(そうめいさいべん)、是第三等資質」と順位付けられます。

つまりは、「磊落豪雄…明るく物事に動じない」「聡明才弁…非常に頭が良く弁が立つ」だけでは全く不十分で「深沈厚重」な人でなければならないわけです。深く沈着で思慮深く、相手が温かい愛情に包まれるような厚みを有し、重みがあり安定感を持つ人物が第一等だということです。

そうした重厚感・教養・胆識等といったものを得る為には、様々な艱難辛苦、喜怒哀楽を経験するのが一番だと私は思います。そして補足的には精神の糧となる書物を味読し日々の行動で実践し、知行合一的な修養を積んで自己人物を練り更なる精神の向上を図って行くのです。

そのようなことから腹が出来上がってくると思います。西郷南洲公と勝海舟は双方が大変な腹芸をして、江戸城の無血明け渡しが決められました。此の腹芸が出来なければ、直ぐに争いが生じてしまいます。腹を鍛えるということは、即ち自らの精神を鍛えるということなのです。

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