アインシュタインの手紙:「神は愛なり」と信じられない人々

世界的理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879~1955年)が生前、知人宛てに書いた手紙がオークションに出されたという外電を読んだ。手紙は1954年1月3日付でドイツの哲学者エリック・グートキンド宛て。アインシュタインはその中で「私にとって神という言葉は人間の弱さの表現と産物以外の何物でもない」と記述している。

1947年に撮影されたアインシュタイン(ウィキぺディアから)

人間は弱いゆえに、神に癒しを求める。強靭無敵のスーパンマンならば、ひょっとしたら神を必要としないかもしれないが、スーパーマンではないわれわれは「弱い」ゆえに神にとりすがる。

神を信じ、生涯を神とイエスのために人生を捧げた修道女マザー・テレサですら、生前、神の存在、イエスの声が分からなくなって苦悩した。人間にとって「神の存在」が分かることは容易ではない。アインシュタインの「神という言葉は人間の弱さの表現」という指摘は多分間違いないだろう。

手紙が書かれた1954年といえば、第2次世界大戦が終わって10年も経過していない。大戦では数百万人のユダヤ人が犠牲となった。その記憶はまだ生々しい時だった。アインシュタインは「人間の弱さ」とそれを救済しない「神」の不在に悩んでいたのではないだろうか。

創世記第4章に記述されているカインの系図を見ると、カインの血統にレメクが生まれている。レメクは「強い者、征服者」を意味する。一方、セツの息子エノスは「弱さを持った者」を意味する。興味深い点は、アベルを殺害したカインの血統をひくレメクとセツから生まれたエノスはまったく異なった生き方、世界観を示していることだ。エノスから神を求める「宗教」が生まれ、カインの血統を引くレメクから「無神論世界」が生まれ、最終的には「共産主義」となって実を結ぶ。換言すれば、弱さから「宗教」が生まれ、「強さ」から無神論的共産主義が生まれてきたわけだ。その意味からもアインシュタインの「信仰告白」は正しい(「『無神論者』はいつ生まれたか」2018年9月19日参考)。

神は真理の具現者であり、その知恵は人知をはるかに超えている、という意味で「神は存在する」と多くの敬虔な科学者たちは考える。米国を中心に広がっているインテリジェント・デザイン論(ID理論)はその代表だろう。宇宙を探索する科学者たちは宇宙、小宇宙といわれる人体を研究すればするほどその緻密な構造とメカニズムに驚く。それらはサイコロを転がした結果、偶然現れてきたとは到底信じられない、という感慨を持つ。

量子テレポーテーションの実現で世界的に著名なウィーン大学の量子物理学教授、アントン・ツァイリンガー氏は、「偶然でこのような宇宙が生まれるだろうかと問わざるを得ない。物理定数のプランク定数がより小さかったり、より大きかったならば、原子は存在しない。その結果、人間も存在しないことになる」と指摘している。宇宙全てが精密なバランスの上で存在しているわけだ(「『量子物理学者』と『神』の存在について」2016年8月22日参考)。

第一原因としての「神の存在」は今後、科学の発展で誰にも理解できるように解明されていくだろう。もちろん、新たな問題も生まれてくる。イスラエルの若き歴史学者ユバル・ノア・ハラリ氏は、「ビッグ・データのアルゴリズムが決めた決定に対して信頼することが21世紀の支配的なイデオロギーとなるだろう。ちょうど昔の神々のように、人々は全能なアルゴリズムとデータ主義が決めたことを信仰するようになる。彼らは人間より迅速に正確に決定できるからだ」と述べ、新しい神、ホモ・デウスを主張している。「神の存在」がアルゴリズムとデータ主義に取って代わられると予言しているわけだ。

当方の一方的な推測だが、アインシュタインが葛藤したのは「神の存在」ではなく、「神は愛か」という点にあったのではないか。「人間は死ねば、ゴミになる」と言い切った英国の理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士にとって「神の存在」より「神は愛なり」というその神性を首肯できなかったゆえに、「神の存在」まで否定したのではないだろうか(「ホーキング博士の“神探しの道”は続く」2018年10月25日参考)。

新約聖書ヨハネの第1の手紙4章の中で、使徒ヨハネは「神は愛なり」と高らかに宣布している。聖書を開き、神を探す多くの人々はその宣言に心を動かされ、神への信仰の道を歩みだす。愛は人々を引き付けるパワーを持っている。キリスト教の信仰が厳しい試練の歴史の中でも消滅することがなく今日まで続いてきた主因は「神は愛である」という信仰があったからだ。

21世紀に入り、「神の存在」は科学的、実証的に一層明らかになってきたが、皮肉にも「神は愛なり」という神の神性に躓き、神から遠ざかる人々が増えている。戦争、大災害、病、死などに直面した多くの人々は「なぜその時、神は介入せず、関与しなかったか」という問いに悩まされ、「神は愛なり」という神性に強い疑いを持つ。無神論者は昔、「神の存在」が大きなハードルだったが、今日は「神は愛なり」に躓いている。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年12月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。