「日本の高校ベスト100」(啓文社書房)を通読していただくと、日本の中等教育(中学と高校)の歴史についての基礎知識をもてるようになっている。この分野は、誤った江戸時代礼賛などで混乱しているので、アゴラの読者にも全体的な俯瞰を紹介しておこう。
日本では庶民に至るまで仮名を読める人が多いというのは、1559年に来日したザビエルも証言しているところだ。その一方、中国や朝鮮のように科挙があったわけでなく、本格的な文書作成や高度な読書はあまり普及せず、戦国武将なども僧侶などに頼っていたようだ。
ようやく幕末に近づいてからだが、庶民が初歩的な手習いを習得できる寺子屋が増え、一方、上級武士のみを対象とし、漢学に教科内容は限定されていたとはいえ、各藩が藩校を設けるようになった。
ただし、漢学にほとんど限定されていたので、明治になると使い物にならず廃絶した。名門高校で藩校の系譜に連なるという所は多いが、基本的には、いったん断絶したものをあとになって、伝統を誇示するために連続しているかのように言い出しただけである。現在の高校は、明治になって洋学を教えるために創ったものの後裔である。
明治維新ののち、新政府は武士階級からの中等教育を優先して整備して欲しいという要望を退けて、小学校の普及を優先させるというラディカルな教育政策をとったが、その教師を育てるための師範学校は各府県ごとに整備された。これが、日本の近代的な中等教育の始まりである。
ついで、明治20年頃から本格的な中等教育の整備が図られた。すなわち、明治19年に「一県一尋常中学校令」が定められ、官立の中等教育機関を一校に集約し、それまで各地方でばらばらに設立されていたのを、組織、レベル、教科内容を統一することになった。ここで設立されたものが、いわゆる旧制一中的な高校(本書では旧制一中)のルーツである。ただし、当初は各府県に一校しかないので一中と名乗る必要はなかった。
一中という名称にしたのは、明治24年に、国の方針が変わって各府県に複数の中学が設立されるようになって、府県ごとにナンバースルールのかたちをとることが多くなったときであるし、そのときに、ナンバースルール制を取らずに地名などをもって校名としたケースも多い。
たとえば、兵庫県では姫路の兵庫県尋常中学に次ぐ二番目の中学として神戸に中学が設立されたとき、それぞれ姫路尋常中学(現在の姫路西高校)、神戸尋常中学(神戸高校)と名乗った。
その後、尋常中学は単に中学といわれることになった。一方、高等女学校や商業・工業・農業などの実業学校も普及した。
そして、戦後になると、6・3制の導入で、すべての中等教育機関は、新制中学と新制高校に再編成されて現在に至っている。ただし、最近では中高一貫校がふえて、制度上は従来の高校に中学が併設されていることもあるが、中等学校という完全一貫制の学校も多くなりつつある。
ただ、公立高校については、昭和40年ごろから、東京都の学校群制度などにより、高校の平準化や熱心な受験指導の回避が図られた。その結果、私立高校の人気が高まった。さらに、中高一貫による前倒しのカリキュラムも魅力だった。その結果、費用が高い私立学校に行かないと東京大学など難関大学に行きにくくなっている。
この事態を受けて、公立高校でも通学区域の撤廃や柔軟化、中高一貫制の導入、理数クラスを初めとする特別学級の設置、スーパーサイエンスハイスクールなどの指定などが行われ、復権が図られ、それなりの成果を収めている。
これを受けて私立高校では、高校からの募集を止めて一貫制に特化するところが増えている。