安倍政権の「最大の功績」
第二次安倍政権が成立し6年が経過し2019年を迎えた。今年は新天皇即位、改元、参議院選挙が行われ、また憲法9条に自衛隊の存在を追記する改憲案、いわゆる「9条加憲案」が議論されると言われる。
2019年は「天皇」「憲法」という言葉が注目され、我々日本人は良くも悪くも「国家」とか「日本」を意識することが多くなると思われる。
この情勢下でいわゆる反安倍勢力は改憲阻止に向けてあらゆる運動を行うのは確実である。
反安倍勢力が安倍政権から守ろうとしているのは言うまでもなく日本国憲法であり、彼(女)らの中で日本国憲法は絶対的であり、それは宗教の「聖典」と同じである。
もちろん憲法は聖典ではないが、かつては大日本帝国憲法が「不磨の大典」として扱われた歴史を鑑みれば「憲法を聖典化する者」は日本の歴史において特異な存在ではない。
さて日本国憲法を聖典化している反安倍勢力だが「反安倍」はもちろん一方的な呼び名である。反安倍勢力の者に「貴方は何者か」と問えば「リベラル」と答えるに違いない。
彼(女)らは奇形的発展(=退化)を遂げた日本型リベラルと呼んでも差し支えないだろう。
そして安倍政権の「最大の功績」は特定秘密保護法や安保法制、ましてや共謀罪を制定したことではなくこの日本型リベラルを可視化したことである。
「議論の破壊」と「多数派の中枢を攻撃する」という戦術
日本型リベラルの特徴は「リベラルな社会」を創造できないことであり、それは民主党政権で一応、証明された。そしてその評価を不動のものにし可視化させたのが安倍政権である。
日本型リベラルは「リベラルな社会」を創造できないから「リベラルの敵」を攻撃することで自己正当化を図る。「リベラルの敵」とはもちろん安倍政権であり、これにネット右翼とレイシストが加わり後者二つは日本型リベラルの主観で判断される。
日本型リベラルのこうした姿勢は彼(女)らの源流たる「革新」が55年体制下で「万年野党」を選択し政権与党になることを自主放棄したことに因る。「万年野党」の結果、政権担当能力を失い「リベラルな社会」を創造する能力も失った。更に「他人を説得する能力」は全く身につかなくなった。このことから日本型リベラルの本質は日本社会の「寄生者」に過ぎない。
控えめに言って彼(女)らは少数派であるが、日本は全会一致を尊ぶ社会であり少数派に過大な発言権が付与されている。例えば野党が国会を欠席しても「職務放棄」ではなく正当な「抵抗」と見なされ国会審議が止まる。日本型リベラルは日本型意思決定を逆手に取り議論を破壊する。民主主義が「対話」を基礎とする政治体制であることを考えればこれは由々しき問題である。
また「多数派の中枢を攻撃する」という手法も積極的に採る。
自らの力不足を補うために大衆デモを積極的に評価し、それを通じて「多数派の中枢を攻撃する」国会・政党本部前デモもこの一例である。もちろんデモは憲法で保障された国民の権利だが規模と実施場所によっては治安上の問題になる。「抗議の声」と言えば聞こえは良いがやはり「集団威圧」という性格も持つし、ともすれば暴動に転化しかねない。
更にリベラル系ジャーナリズムは印象操作などを通じて保守系政治家個人を徹底的に攻撃する。明白な証拠もないのに「首相の関与」を強調し安倍首相を攻撃した森友・加計学園騒動はこの一例と言えよう。
「多数派の中枢を攻撃する」という手法を人間で例えるなら相手の首元の頸動脈を指で押さえつけながらその相手に「ほら、自由に喋れるじゃないか」というものである。当然、首元の頸動脈を指で押さえつけられた状態では自由に喋れない。頸動脈を押さえつけている者には何も言えないし、その者の期待に沿った発言をするしかない。
日本型リベラルが採る「議論の破壊」と「多数派の中枢を攻撃する」という2大戦術は戦後、与党に大きな制約を加えてきた。この「制約」の影響が最も大きかったのは憲法論議であり改憲論議は事実上、封じられてきた。
「自主憲法制定」を党是とする自民党が改憲論議を封じられた事実は重い。それは「制約」を超えて「屈服」を強いられたと言っても過言ではない。要するに少数派が非民主的手法を通じて多数派を屈服させたのである。
「こんな人たち」と「みっともない憲法」の克服を
日本型リベラル界隈では自らが「野党」とか「在野」であることが当然視されている。
そのため彼(女)らの界隈では「権力と闘う」とか「権力を監視する」などの言説があふれている。特にジャーナリズムの肩書を持つ者はこの意識が極めて高い。
しかし、例えば沖縄県の玉城デニー知事に対して日本型リベラルは「闘う」だろうか。とても「闘う」とは思えない。それどころか「支援」もしくは「一体化」している印象すら受ける。
もともと権力観もおかしい。今の権力は基本的には「国民の代表者」であり国民が制御可能な権力である。封建時代のように権力者と民衆の間に断絶があるわけではない。断絶がないのにさも断絶があるかのように強調し、それと闘うことで自己正当化は図っている。
今の日本で「民主主義が崩壊した」という事実はないが、立憲民主党を始めとした野党各党の振舞いを見る限り「動揺」しているとは言えるし、その動揺を放置すればやがて崩壊にいたる可能性も否定できない
そして今の日本で民主主義を動揺させているのは安倍政権でもなくネット右翼でもなくレイシストでもなく日本型リベラルである。
彼(女)らは多数派を屈服させる戦術を通じて「立憲主義を回復させる」の名の下に「国家権力の制約」を正当化し自らが国家権力を超えた存在になろうとしている。
ここまで来ると「日本型リベラル」という呼称の使用すら躊躇してしまう。批判を覚悟で言えば安倍首相が2017年の都議選の際に選挙妨害に対して反射的に言い放った「こんな人たち」という表現が正確である。
そして「こんな人たち」が聖典化し他人を攻撃する根拠に成り下がった日本国憲法ももはや憲法とは言えない。ここでも安倍首相の言葉を借りれば日本国憲法は「みっともない憲法」と言わざるを得ない。
今の日本は「こんな人たち」と「みっともない憲法」が車の両輪のごとく一体化し日本の民主主義を動揺させている。ではこの動揺をおさめるためにはどうすれば良いだろうか。
それは憲法9条を改正することである。9条2項を削除すれば「こんな人たち」は思想的基盤を失う。9条2項の削除とまでいかなくても「9条加憲案」であっても憲法の聖典化に打撃を与えるので「こんな人たち」も大きく動揺するだろう。
要するに憲法9条の改正こそが日本の民主主義を安定化させる最大の政策である。改憲はこの観点からも議論されるべきである。
論を整理するならば日本の民主主義を守るためにも「こんな人たち」と「みっともない憲法」を克服することが求められている。
憲法9条を改正すれば「こんな人たち」も「正常化」し落ち着いた「リベラル」となり日本の課題について有益な意見を出してくれるに違いない。
「こんな人たち」との「対話」は決して夢物語ではない。
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高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員