平成の時代が、残り5か月余と「最終盤」に入った昨年11月19日、日産・ルノー・三菱自動車の会長だったカルロス・ゴーン氏が、東京地検特捜部に、突然逮捕され、その直後、日産西川廣人社長は、緊急記者会見を開き、「ゴーン氏への権力の集中」を是正するため同氏の不正に関する社内調査結果を検察に提供したことを明らかにした。
国内だけでなく、海外からも大きな注目を集めることになった「日産・ゴーン氏事件」のその後の展開は、平成の時代における重要テーマとされてきた、企業のガバナンス・透明性、「日本版司法取引」と検察の在り方、マスコミ報道の在り方等の問題に関して、日本社会が今なお根深い問題を抱えていることを示すものとなった。
4ヵ月間の「平成最後の年」を迎え、この事件で表れた日本社会の「病理」をこのままにして平成の時代を終わりにして良いのだろうか。これらの問題の相互関係を整理しつつ、考えてみたいと思う。
「平成の30年」の企業ガバナンスへの取組みと日産経営陣の行動
第1に、西川社長ら現経営陣が、ゴーン氏を代表取締役会長の座から引きずり下ろした方法が、コーポレートガバナンスの観点からどう評価されるかという問題である。
西川氏は、逮捕直後の記者会見で、ゴーン氏への権力の集中によってガバナンスが機能していなかったことを強調した。しかし、ガバナンスの観点からまず問題とされるべきは、その西川氏らが行ったこと、すなわち、「ゴーン氏の不正」について密かに社内調査を行い、その結果を検察に情報提供して代表取締役のゴーン氏・ケリー氏の2人を検察に逮捕させ、その間に、臨時取締役会を開催して両氏の解職を議決したやり方である。
社内調査の結果把握した「絶対権力者」の不正が悪質・重大であったとしても、不正が、「会社の開示義務違反」「会社の資金の私的流用」など会社の対応や財産に関するものなのであれば、本来は、ガバナンスのルールにより、「私的自治」の範囲で解決されるべきだ。社内調査結果を取締役会に報告し、当事者に弁解・説明の機会を与えた上で、代表取締役会長の「解職動議」を出して議決するというのが本来のやり方だ。
「昭和の時代」には聞くことがなかった「コーポレートガバナンス」という言葉は、平成に入って以降、旧態依然とした日本企業の経営改革の旗印とされ、会社法や上場企業のルール整備などが行われ、日本社会の重要なテーマとされてきた。
「取締役会自体が、絶対権力者に支配されていて、不正事実を報告されても適切な議決ができない」という理由は、平成に入ったばかりの頃であればともかく、現在においては、ガバナンス無視を正当化する理由にはならないはずだ。そのような事態を防止し、対処するために、会社法上、ガバナンス上のルールが整備されてきたはずだからだ。不正事実が明白であればそれを容認することは取締役の善管注意義務違反となる。取締役会に出席する監査役は、そのような不正・善管注意義務違反を指摘し、是正するための法的権限が与えられている。それらの仕組みがあり、法的責任の追及が可能となることで、「企業経営者の暴走を抑止する」というのが、コーポレートガバナンスの仕組みだ。
西川氏らは、そのような会社法上の法的手続を無視して、社内調査結果を、取締役会での議決を経ることなく検察に持ち込み、検察の捜査権限で代表取締役二人を取締役会から強制的に排除した上で、代表の座から引きずり下ろした。まさに、会社法の規律とガバナンスを根本から否定するものだ。
組織のボスに逆らう態度をとった者は、その瞬間に、マシンガンが火を噴き物理的に抹殺されるというマフィア映画のような世界であれば、ボスに立ち向かうためには警察の力を恃むしかないということもあるだろう。しかし、日産自動車という上場企業での「ゴーン会長による独裁」を、果たして、そのようなマフィア組織と同視してよいのであろうか。
ゴーン氏ら逮捕直後の会見で、西川氏は、「内部調査によって判明した重大な不正行為は、明らかに両名の取締役としての善管注意義務に違反する」として、
(1)逮捕容疑の役員報酬額の虚偽記載のほか、
(2)私的な目的での投資資金の支出
(3)私的な目的で経費の支出
の3つを指摘し、11月22日の臨時取締役会で、それらを理由に、ゴーン氏・ケリー氏の代表取締役解職を議決したようだ。ゴーン氏という権力者の不正は、誰の目にも明白な「犯罪」であり、それは、検察当局の権限によって刑事処罰の対象にするしかないものだった、と言いたかったのであろう。
しかし、西川氏が言うところの内部調査の結果判明した「不正」が、明白な「犯罪」で、代表取締役解職が当然のものであったのか否か、現時点では、検察が逮捕・起訴した(1) の「役員報酬額の虚偽記載」は「退任後の報酬の支払の約束」記載の問題であることが明らかになっているだけで、(2)(3)については、検察の捜査に関わるとして、社内調査の結果すら、一切、公式には明らかにされていない。
このように考えると、西川氏ら日産経営陣がゴーン氏を代表取締役会長から追い落とした手法は、「平成の30年」の間にルールが整備され、大幅に進化したはずの日本のコーポレートガバナンスにおいて決して許容される行為でないことは明らかである。
「上場企業の透明性」の問題
第2に、日本を代表する上場企業である日産自動車に関して、株主や投資家に対して「重要な事項」が迅速かつ正確に情報開示されているのかという「上場企業の経営の透明性」の問題がある。
上場会社の財務内容に加えて、いかなる体制で、いかなる方針によって経営が行われているのかなどの企業の内容が正確に開示されることや、経営者が交代したのであれば、それがいかなる理由により、どのような手続で交代が行われたのか(辞任か解任か)が明らかにされることは、株主や投資家の判断にとっても極めて重要な事項であり、迅速かつ正確に情報開示されることが必要だ。それは、「上場企業の経営の透明性を確保する」ということだ。
「昭和の時代」は、このような上場企業の透明性確保の視点は希薄であった。そもそも、この時代は、証券市場自体が,不確実な情報と思惑が入り乱れる中で投機的な取引が横行する世界であり,企業の内部情報が「市場内の噂」となって株価に影響することも常態化していた。企業会計も「簿価会計」が原則で,上場企業であっても,含み益の実現等調整による決算対策を行うことは容易であり,公表上の損益と会社の実態との間にかい離があることも珍しくなかった。そのような状況において、「企業内容の公正な開示」に対する投資家の関心も低かった。
平成に入ってからは、90年代に多発した企業の重大な不祥事等を契機に、上場企業の透明性確保に向けての取組みが進んだ。企業の適時開示についても法律の規定だけではなく取引所のルールも充実化され、株主や投資家は、有価証券報告書等を通して、企業の内容をタイムリーに認識できるようになった。「平成の30年」は、企業内容の透明性確保のための制度が飛躍的に充実した時代だったと言える。
日産という日本を代表する上場企業に関して、会長だったゴーン氏が逮捕された昨年11月19日以降、経営体制が、ゴーン氏をトップとする体制から西川社長を中心とする体制に変わったにもかかわらず、その理由については、西川氏がゴーン氏の逮捕直後の会見で説明すると同時に日産のホームページで以下のように開示されただけで、具体的な事由は一切明らかにされていない。
社内調査の結果、両名は、開示されるカルロス・ゴーンの報酬額を少なくするため、長年にわたり、実際の報酬額よりも減額した金額を有価証券報告書に記載していたことが判明いたしました。そのほか、カルロス・ゴーンについては、当社の資金を私的に支出するなどの複数の重大な不正行為が認められ、グレッグ・ケリーがそれらに深く関与していることも判明しております。
ここで言われている「資金の私的支出などの重大な不正行為」というのが何なのか、全く明らかになっていない。しかも、この「ゴーン氏の不正が判明した」と言っているのも、当事者に弁解の機会すら与えることもなく、代表取締役3人のうちの1人の西川氏の判断だけで一方的に行ったものだ。その社内調査を持ち込まれた検察がゴーン氏らを逮捕した直後の段階で、社内調査の結果すら公表しないまま、社内調査結果で「判明した」と決めつけてしまっているが、上場企業として、そのような一方的な開示が許されるのだろうか。
そして、43%余の株式を有する大株主ルノーは、当然のことながら、そのような日産現経営陣の行動を支持・容認はしておらず、今後、日産自動車の経営がどうなるのか、全く不明な状況が続いている。その一方で、ゴーン氏逮捕以降、検察や日産側のリークによると思える夥しい量の報道により、日本社会では「ゴーン氏による経営の私物化」が既定事実化し、「日産経営陣の行動の正当性」が是認されているように見える。
このように、日産自動車という上場企業について、経営者の交代の理由や今後の経営の見通しという重要な企業内容に関して、公式な開示がほとんどないまま出所不明の情報が氾濫するという異常な状況にあり、株主や投資家にとって、極めて「不透明な状況」が続いている。このような状況も、「昭和の時代」であればともかく、「平成の30年」を経た現在の日本の企業社会では許容されないはずである。
「平成の30年」に、検察をめぐって起きたこと
そのような「不透明な状況」を招いている根本的な理由は、西川社長ら日産現経営陣が、それまでの経営トップであったゴーン氏を解職すべき理由として西川氏が指摘した(1)~(3)の不正について、社内調査の結果を検察に持ち込み、ゴーン氏に対する捜査を要請し、検察が、それに応じて、日本への帰国直後のゴーン氏・ケリー氏を、いきなり逮捕したからだ。
そこで問題になるのが、西川氏らの行動を是認し、ゴーン氏らを逮捕するという判断を行った検察という組織の問題だ。
特捜部という捜査機関を抱える検察は、戦後の日本において、政治・経済を動かし、時代を変える大きな影響力を持つ存在であった。その検察をめぐって「平成の30年」にどのようなことが起きたかを振り返ってみる必要がある。
平成の時代に入ったばかりの平成元年2月、東京地検特捜部は、江副浩正リクルート会長を逮捕した。このリクルート事件の捜査展開を受けて、竹下登首相は退陣、内閣総辞職に追い込まれた。リクルート事件は、平成に入った直後の日本の政治に重大な影響を与えた。
そして、その後、90年代を通して、東京佐川急便事件、自民党金丸副総裁の脱税事件、ゼネコン汚職事件と、東京地検特捜部の捜査は、日本社会に大きな影響を与え続けた。
こうした中、検察は「正義」を実現する組織だと国民のほとんどが信じる一方で、その組織の内実は、ベールに包まれていた。
その検察の内実が露呈する重大な危機に直面したのが、平成14年(2002年)のことだった。当時、大阪高検公安部長だった現職検察官の三井環氏が、「検察庁が国民の血税である年間5億円を越える調査活動費の予算を、すべて私的な飲食代、ゴルフ代等の『裏金』にしていることを、現職検察官として実名で告発する…」として証言するビデオ収録当日の朝に、競売で取得した神戸市のマンションに居住の実態がないのに登録免許税を軽減させた「詐欺」の容疑で任意同行を求められそのまま逮捕された。マスコミからは「検察による口封じ」と批判された。
そして、平成22年(2010年)、大阪地検特捜部が、厚生労働省の現職局長だった村木厚子氏を逮捕・起訴した郵便不正事件で、検察官による不当な取調べが問題とされて検察官調書の大半の証拠請求が却下され、無罪判決が言い渡され、その直後、主任検察官が、証拠のフロッピーディスクを改ざんしていたことが発覚、検察を揺るがす大不祥事となった。一方、東京地検特捜部では、陸山会事件での小沢一郎氏に対する捜査の過程で、同氏の秘書だった石川知裕氏の取調べでの供述内容について虚偽の捜査報告書を検察審査会に提出し、小沢氏に対する起訴議決に誘導しようとしていた事実が発覚。虚偽公文書作成罪での関係者の告発が行われた。
検察は、大阪地検特捜部の事件で主任検察官を証拠隠滅、特捜部長・副部長を犯人隠避で逮捕・起訴し、特異な主任検察官と特捜部幹部による「特異な事件」として決着させる一方、東京地検特捜部の問題については「捜査報告書の虚偽」は「記憶違い」だとして関係者全員を不起訴とし、主任検察官だけが辞職することで、事件を決着させた。
大阪地検の不祥事を受けて、法務省には「検察の在り方検討会議」が設けられた(筆者も委員として加わった)。不祥事の反省を踏まえた「検察改革」の一環として、「検察の理念」も制定・公表された。検察改革は、その後、村木氏も加わった法制審議会特別部会で議論され、検察官の取調べの録音・録画を義務化する一方、新たな捜査手法として「日本版司法取引」を導入する刑事訴訟法改正が行われた。
一連の不祥事で信頼を失ったことの影響で、その後、検察捜査が社会の耳目を集めることはほとんどなく、特捜部は「鳴かず飛ばす」の状況が続いていたが、東京地検特捜部は、2018年3月に大手ゼネコン元幹部を逮捕・起訴した「リニア談合事件」に続いて、日産・ルノー・三菱自動車のゴーン会長を逮捕した今回の事件で、国内のみならず、海外からも大きな注目を集めることになった。
一方、大阪地検特捜部が、不祥事以降初めての本格的な検察独自捜査に着手したのが、2014年11月に、大阪国立循環器病研究センターの医療情報部長を逮捕した「国循官製談合事件」だった。
このように、検察が、日本社会に大きな影響を与える一方で、検察組織としての重大な問題が表面化し、組織そのものの信頼が揺らいだのが「平成の30年」であった。
検察は、不祥事を反省し、「健全な組織」になったのか
「国循官製談合事件」については、検察に起訴された桑田成規氏は無罪を主張したが、2018年3月に大阪地裁で有罪判決が言い渡された。私は、控訴審から桑田氏の弁護人を受任し、控訴趣意書を大阪高裁に提出した。この事件で、検察が行ったことの不当性、社会を害する程度が、「村木事件」にも匹敵するものであることは、【“国循事件の不正義”が社会に及ぼす重大な悪影響 ~不祥事の反省・教訓を捨て去ろうとしている検察】で詳述している。
では、東京地検特捜部が行った今回のゴーン氏の事件の捜査と、それに関する検察組織の対応はどう評価されるのか。
「平成の30年」の終わりを迎え、検察が「検察の理念」を実現できる健全な組織になったと言えるのだろうか。
第1に、今回の事件の中身の問題である。
刑事立件された事件は、
(1)2015年3月までの5年間の有価証券報告書の虚偽記載
(2)2018年3月期まで3年間の有価証券報告書の虚偽記載
(3)ゴーン氏のデリバティブの評価損の日産への付け替えの特別背任
(4)サウジアラビア人の会社への支出の特別背任
このうち、(1)が既に起訴されており、それに続く再逮捕事実とされた(2)については、裁判所が勾留延長請求を却下し、現在も処分未了であり、(3)と(4)は、(2)での勾留延長請求を受けて急遽、ゴーン氏を再逮捕した事実であり、1月11日に勾留延長満期を迎える。
このうち、(1)、(2)は、「退任後の報酬支払の約束」についての不記載を問題にするものだが、退任後のコンサル、競業避止等による報酬を受ける「希望」ないし「計画」に過ぎず、役員報酬として有価証券報告書に記載義務はないのではないか、役員報酬の記載が虚偽記載の問題とされたことは過去に例がなく、しかも、退任後の報酬の問題であり、罰則の対象となる「重要事項」には当たらないのではないか、との重大な疑問がある(【役員報酬「隠蔽」は退任後の「支払の約束」に過ぎなかった~ゴーン氏逮捕事実の“唖然”】)。
また、(2)については、直近2年分については西川社長がCEOであり、有価証券報告書の作成・提出義務者で、しかもゴーン氏の退任後の報酬についての合意書に署名していたとされる西川社長の刑事責任の問題は避けては通れない。西川氏中心の日産経営陣側と連携して虚偽記載でゴーン氏、ケリー氏のみの刑事責任を追及しようとしている検察捜査には重大な疑問がある(【ゴーン氏「直近3年分」再逮捕で検察は西川社長を逮捕するのか】)。
(3)は、単に「評価損」を一時的に、日産という企業の信用下に置いただけで、損失が現実化した時にはすべてゴーン氏が負担しており、「損失の発生」が考えられないのに、背任罪の構成要件の「損害を発生させた」と言えるか重大な疑問があり、少なくとも、過去に、現実の損害が発生していない事例で背任罪が適用された事例は全くない。
(4)については、支払先のサウジアラビア人という直接の当事者本人から、支払を受けた理由についての供述を確認しなければ、レバノン国籍を持つゴーン氏自身の人脈の中東における日産の販路拡大への活用などとの関係で、支払が日産会長としての任務に背くものかどうかが明らかにならない。日産社内の担当者の証言等から、ゴーン氏の裁量で支出できるとされていた「CEO直轄費」の創設や支出自体が不正なものであったと認定できるとすれば、そのような不正な支出が、なぜ、日産の内部統制や監査法人の会計監査で指摘されなかったのかに疑問が生じる。また、「不正の支出」であれば、日産がゴーン氏に関して行った社内調査でなぜ明らかにならなかったのかも疑問だ(【ゴーン氏特別背任逮捕は、追い込まれた検察の「暴発」か】)。
結局、(1)~(4)のいずれも、経済犯罪に対する常識的な見方に照らして、刑事事件としてまともなものは何一つない。無理筋の事件を強引に立件したと言わざるを得ない事件ばかりだ。
第2に、このような事件で、国際的な経営者であるゴーン氏をいきなり逮捕するという、常識では考えられない行動をとったことに関する、検察組織の姿勢だ。上記(2)の事実について、東京地裁が勾留延長請求を却下したことへの検察幹部の反応について、それまで「従軍記者」のような立ち位置で、検察の捜査現場や検察幹部を「密着取材」してきた朝日新聞の記事【検察幹部「はしご外された」 ゴーン前会長今後の動きは】(11月21日)で、以下のように書かれている。
「裁判所は、検察と心中するつもりはないということだ。はしごを外された」検察幹部は東京地裁の決定に対し、こう漏らした。日本の刑事司法における「長期勾留」を海外メディアが批判していたこともあり、ある程度は警戒していた。「国際世論に配慮して早期釈放すれば、『日本の裁判所は検察と違う』と英雄視されるから」
日本の刑事司法においては、検察が起訴した事件について有罪率は99.9%にも達する。まさに検察が「正義」を独占し、裁判所は、その検察の正義を追認するだけの構図だったことは確かであり、特に、特捜事件については、裁判所が検察の主張を否定することはほとんどなかった。それが当然だという検察側の認識が、上記の記事の「はしごを外された」という検察幹部の発言に表れている、無理筋の上に無理筋を重ね、それに対して裁判所がくだした「当然の判断」に反発するというのは、検察の驕りを端的に表している。
第3に、検察の「説明責任」に対する姿勢である(【ゴーン氏「直近3年分」再逮捕で検察は西川社長を逮捕するのか】)。
一般的に言えば、刑事事件については、「捜査の秘密」や「公判立証への影響」が重視される関係で、事件の内容に関する情報開示に大きな制約がある。刑事事件の関係者は、捜査機関側から、捜査の対象となっている事件の内容を公にしないことを強く求められる。
一般的には、刑事司法の対象としての「犯罪」は、殺人・強盗・窃盗などのように、社会、経済の中で一般的に生じる事象とは異質な「犯罪行為」そのものであり、処罰すべきか否かを判断する余地はない。犯罪があれば、犯人を処罰するのが当然であり、その犯人が誰なのか、その証拠があるのか、そして、その犯罪の情状つまり、「犯罪に至った事情」を考慮して、「処罰の程度」を判断するのが刑事司法の役割だ。そのような「伝統的犯罪」の領域であれば一切の情報を開示せず、説明責任を果たさないという対応も致し方ないのかもしれない。
しかし、特に、特捜部が扱う事件は、そのような「伝統的犯罪」とは異なり、一般の社会や経済で起きる事象について、政治家・官僚・企業人など、社会の中心部で活動する人間が摘発の対象とされ、社会生活や経済活動に対しても重大な影響を与える。しかも、殺人事件のように「発生した事件の犯人を検挙する」というのではなく、検察独自の判断で、刑事事件としての立件を判断する。そのため、同種の事象が世の中に多数存在している中で、なぜそれだけを刑事事件として取り上げたのか、他の同種の行為とどう違うのかについて疑問が生じることになる。
例えば、2006年のライブドア事件で東京地検特捜部が行った「突然の強制捜査」は、翌日、東証が1日システムダウンするほどの重大な経済的影響を与えた。2009年の陸山会事件で、当時の野党第一党であった小沢一郎民主党代表の秘書3人を政治資金規正法違反で逮捕した事件は、その後の日本の政治にも重大な影響を与えた。
これらの事件については、他の同種の事象との比較で、なぜ、それらの事件だけを刑事事件として取り上げたのかについて検察の「説明責任」が問題とされたが、検察は説明責任を一切果たしてこなかった。
特捜検察と「利益共同体」とも言える司法メディアは、検察に公式の説明責任を求めようとせず、取材源である「検察幹部」が非公式に述べた意見や考え方をそのまま、匿名で無批判に伝えるというのが従来のやり方だった。 そのようなマスコミの姿勢もあって、「検察の正義」の象徴とも言える特捜事件についても、社会への説明責任を一切果たさない検察の姿勢が容認されてきた。
ゴーン氏の事件については、国際的にも注目を集めていることに配慮したのか、東京地検次席検事が、外国メディアの参加も認める「記者会見」を何回か行ってきた。しかし、撮影・録音は一切禁止、しかも、事件の内容に関すること、検察の対応や処分の理由に関することについては、すべて「答えを差し控える」として説明を拒絶するなど、単に、「記者を集めて質問を受ける場」を作ったに過ぎず、凡そ「記者会見」と呼べるようなものではない。
日本版司法取引と「日産・ゴーン氏事件」
そして、第4に、「日本版司法取引」との関係である。
「日本版司法取引」は、従来の検察捜査が、取調べと供述調書中心で、それが、大阪地検不祥事のような大きな問題を引き起こした反省を踏まえて、従来の捜査手法に頼らない、新たな捜査手法として導入が図られたものだ。その本来の目的からすると、捜査を透明にし、公正さを確保する方向に働くはずだった。
昨年(2018年)6月の施行以降、適用例は、三菱日立パワーシステムズに対する1件だったが、今回のゴーン氏の事件では、逮捕直後から、日産側と検察との司法取引が、大きな成果を挙げた事件であるかのようにマスコミで取り上げられた。どう考えても無理筋と思える上記(1)の事件で検察がゴーン氏を逮捕したことの背景に、日本版司法取引を世の中にアピールしたい検察の思惑があったという可能性もある。
しかし、今回の事件を見る限り、「日本版司法取引」は、検察捜査の透明性を確保するどころか、捜査を一層不透明にする方向に作用しているとしか思えない。
それは、米国では一般的な「自己負罪型司法取引」(被疑者・被告人本人が自らの罪の一部を認める代わりに他の罪の処罰をしない旨の検察官との合意)を導入せず、「他人負罪型」(他人の犯罪についての捜査公判についての協力の見返りに、自己の犯罪の処罰を軽減する合意)のみ導入した「日本版司法取引」の構造的な問題だと言える。
アメリカの「自己負罪型」であれば、司法取引が成立すれば、有罪答弁によって、裁判も経ることなく事件は決着するので、それはただちに表に出ることになる。しかし「他人負罪型」は、その「他人」の刑事事件の捜査の結果、その他人が起訴され、公判が開かれなければ、どのような司法取引が行われたのかが明らかにならない。そういう意味で、日本版司法取引は、米国の制度と比較すると、非常に不透明な制度だと言える。
司法取引の中身が、世の中に明らかにならず、社員に司法取引に応じるよう働きかけたはずの日産側にも、刑事事件として立件されるのがどの範囲になるのかが見通しが立たず、司法取引を仲介した弁護士の判断などに依存せざるを得ないというのは、「日本版司法取引」の不透明性によるものと言える(【ゴーン氏事件、日産の「大誤算」と検察の「大暴走」の“根本的原因”】)。
結局、今回の事件を見る限り、特捜捜査で刑事事件として立件すべきかどうかについて、検察組織に適正な判断が行えているとは到底考えられないし、不祥事への反省から「検察の理念」を策定したにもかかわらず、独善的な考え方は、何一つ変わっておらず、説明責任を果たすことへの消極姿勢も変わっていない。
それに加え、旧来の捜査手法に代わるものとして導入された「日本版司法取引」によって検察捜査は一層不透明なものになっていると言わざるを得ない。
ゴーン氏事件での「犯人視・有罪視報道」
ゴーン氏逮捕直後から、検察或いは日産側からのリークによると思える夥しい量の「ゴーン叩き報道」が行われ、社会全体には「ゴーン=強欲=悪党」というイメージが定着し、ゴーン氏が代表取締役会長を解任されたことが当然のことのように認識されている。
一方で、企業のガバナンスとしては許容する余地がないはずの日産経営陣のクーデターに対する批判的なマスコミ報道はほとんどない。検察がゴーン氏らを逮捕したことで、ゴーン氏に対するバッシング報道一色と化し、「推定無罪の原則」を無視した犯人視・有罪視報道が横行した。日産経営陣は、「検察の正義」という後ろ盾を得たことで、「クーデター」に対しても、その正当性に疑問を持たれることはほとんどなかった。
「平成の30年」は、「犯人視・有罪視」報道が「推定無罪の原則」との関係で反省を迫られ、マスコミの世界では、その是正が大きな課題とされてきた時代だったはずだ。しかし、今回の事件についての報道を見る限り、そのような取組みの成果はどこに行ってしまったのかと思わざるを得ない。
「昭和の時代」の終わり、財田川事件・免田事件等、再審無罪事件が相次いだことで、それまで「呼び捨て」だった逮捕された容疑者は、ようやく「肩書」や「容疑者」を付けて報道されるようになった。そして、平成に入ってから、ロス疑惑事件、松本サリン事件など、「犯人視報道」が問題となる事件が相次ぎ、司法制度改革の目玉として裁判員制度が導入されることになって、日本新聞協会は、2008年に、事件報道についての統一的な取材・報道指針を策定し、その中で、被疑者の権利を不当に侵害する「犯人視・有罪視報道」を行わないこと、検察官と被疑者・被告人の主張を対等に扱う「対等報道」の重要性が確認された。
そして、一審で無罪が確定した村木厚子氏の事件での「犯人視・有罪視報道」については、マスコミ各社が、逮捕当初の報道について検証するなど、この事件での報道への反省が、それ以降の特捜事件の報道に活かされるはずだった。
しかし、今回のゴーン事件に関する報道を見る限り、その大部分は、検察や日産側の情報によって、ゴーン氏の犯人性、悪質性を印象づけようとするものであり、形式的に「捜査関係者によると」「特捜部はみている」などという言葉は書かれていても、実質は、「犯人視・有罪視報道」と変わらない。特にひどいのが、年初以降の、特別背任についての記事である。
例えば、【機密費創設はゴーン被告指示、中東各国に流れる】と題する1月2日の読売新聞の記事である。
ゴーン被告がサウジアラビアの知人側に提供した「機密費」は、ゴーン被告の指示で2008年12月頃に創設されたことが関係者の話でわかった。機密費がサウジ以外の中東各国の関係先に流れていたことも判明。東京地検特捜部は、私的損失で多額の評価損を抱えたゴーン被告が、その穴埋めなどに利用するため、自身の判断で使える資金を用意させたとみている。
と書かれているが、機密費を創設したのがゴーン氏だったとしても、また、それが中東各国の関係先に流れていたとしても、それが、なぜ、「評価損の穴埋め」に使われることになるのか全く不明だ。ゴーン氏の説明を聞かなければ、その点は判断できないはずだ。しかも、その評価損が日産に付け替えられたことが前記(1)の特別背任とされるのであれば、その損失を日産に負担させる意図だったとされているはずであり、そうであれば「穴埋め」の資金は必要ないはずだ。「東京地検特捜部の見方」を伝える記事として「誤り」ではない。しかし、露骨に「ゴーン氏が有罪との印象」を与える記事であることは間違いない。
このような「有罪の印象操作」とも言える報道によって、私のような実体験を持つ者は別として、基本的に「検察の正義」を信じる多くの国民には、次第に印象が既定事実化していく。そして、それは「有罪の印象」を前提にした識者の談話等によってさらに増幅されていく。
例えば、朝日の記事(11月29日)では、ゴーン氏の役員報酬に関して、以下のように報じている。
約20億円の報酬のうち毎年開示するのは約10億円にとどめ、差額の約10億円を退任後に受け取ることにしたとされる点について、「(公表したら)従業員のモチベーションが落ちると思った」と話していることが関係者への取材でわかった
この記事自体は、役員報酬についてのゴーン氏の説明をほぼ正確に伝えたものだろう。
ゴーン氏は、「退任後の報酬」についての虚偽記載を否認し、退任後の報酬についての「希望」ないし「計画」であって確定したものではないと主張しているのであり、「従業員のモチベーションが落ちる」というのは、ゴーン氏の主張を前提にすれば、自らの権限で受領できたはずの役員報酬を敢えて半分に減額し、その分を、確定していない退任後の報酬の「希望」に回した理由の説明のはずだ。
ところが「従業員のモチベーションが落ちる」という理由の説明は、「役員報酬虚偽記載の理由」であるかのように受け止められ、それを前提に識者が批判したりしているのである。まさに、マスコミの「印象操作」的報道によって、識者も「有罪」の印象を持たされて談話を述べているということであろう。
4つの問題の相互関係
「日産・ゴーン氏事件」で、コーポレートガバナンス、企業の透明性、検察の在り方、マスコミ報道の4つに関して起きたことは、相互に深く関連している。
西川社長らが、「ゴーン氏の不正」についての社内調査の結果を、検察に持ち込み、ゴーン氏・ケリー氏が不在の取締役会において、代表取締役会長を解職したことは、コーポレートガバナンスとして許容できることでは決してない。
捜査と刑事手続という「不透明なプロセス」に委ねたことで、逮捕後1か月半が経過しても、西川社長が会見で述べたゴーン氏の「不正」の具体的な内容はほとんど明らかになっておらず、それについて公式な説明・開示は全く行われないという「極めて不透明な状況」を招いていることも、上場企業としてあり得ない事態である。
しかし、日産現経営陣は、コーポレートガバナンスを無視したやり方についても、上場企業としてあり得ない不透明さも、批判されることはほとんどない。
それは、検察のゴーン氏逮捕で、西川氏ら日産現経営陣が「検察の正義」という後ろ盾を得たからである。検察の判断は「正義」であり、検察が逮捕という判断をしたことで、ゴーン氏は犯罪者の「烙印」を押された。それによって、「会社経営から犯罪者を排除することは正当な行為であり、コーポレートガバナンスの問題ではない」という認識になる。確かに、刑事司法全体としては、99.9%の有罪率に表れているように。検察の判断は、ほとんどが、そのまま裁判所の司法判断となる。検察が独自捜査で自ら逮捕した以上不起訴になることはあり得ず(【検察の「組織の論理」からするとゴーン氏不起訴はあり得ない】)、裁判でもほぼ間違いなく有罪になるとの予測は一般的には正しい。
しかし、果たして、検察組織の決定は、絶対的に正義だと言えるのだろうか。
ゴーン氏のような事件についても、検察の判断を絶対的に「正義」と信じてよいのであろうか。殺人事件であれば、その事実がある限り、その犯人が社会から排除されることも当然であるが、経済犯罪・経済法令違反というのは、必ずしも、そのようなものではない。
ゴーン氏の「罪状」は、日産が会社として提出すべき有価証券報告書の記載の問題、会社に評価損を付け替えたことが、損失を生じさせたことになるか否か、中東の知人の会社への支出が、会長の任務に反しているかどうかという、本来会社の「私的自治」に委ねられる問題である。
それに加えて、前記のように(1)~(4)の各事実については、常識的に考えても、刑事事件として立件すべき問題なのかどうか重大な疑問があるのである。検察の判断は絶対的に正義だという思い込みで考えるべきとは到底言えない問題であろう。しかも、既に述べたように、平成の歴史の中では、「検察の正義」への信頼を揺るがす問題・不祥事は、実際に何回も起きているのである。
それにもかかわらず、「東京地検特捜部によるゴーン氏逮捕」で、コーポレートガバナンスも、企業の透明性も、すべて無視されることになるのは、マスコミの「推定無罪の原則」を無視した「犯人視・有罪視報道」によるところが大きい。それが、「平成の時代」を通して、経済社会の重要なテーマであったはずのコーポレートガバナンスや企業の透明性に関する思考を停止させ、西川氏ら日産経営陣の行動を容認することにつながっている。
しかし、逆に言えば、「検察の正義」への過信と、マスコミの「犯人視・有罪視報道」で、簡単に歪められてしまうところに、日本の「コーポレートガバナンス」が極めて脆弱で、「企業内容の透明性」も「見せかけだけのもの」であることが表れている。
それらが、平成最後の4ヵ月を迎えた日本社会の「病理」と言えるのである。
編集部より:このブログは「郷原信郎が斬る」2019年1月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は、こちらをご覧ください。