「“まちづくり”は“ひとづくり”」。
そして、その“人づくり”には郷土愛が必要不可欠と考えます。
島根県隠岐諸島の島前地域(西ノ島町・海士町・知夫村)では、止まらない人口流出の増加、下がり続ける出生率により、町の存続が危ぶまれる状況でありました。しかし、私の友人である岩本悠氏は唯一の島前高校において、隠岐島前教育魅力化プロジェクトを立ち上げました。
サイトによると、様々な試みを行い、ひとつひとつの課題を解決しつつ、
学校や地域が魅力的になると、地域に子どもが留まり、若ものが流入する。そして未来の担い手が増えることで、地域の文化・産業が継続・発展する。最終的には、それが更なる魅力につながり、好循環を生み出すことになったのです。
とあります。
郷土愛がまちをつくることを物語る好事例として多くのメディアで取り上げられています。自治体の持続的可能な運営には、郷土愛が醸成できる土壌が必要です。
中野区において、郷土愛を育むためのツールはあるのか。
ひとつとしては歴史があります。
江戸時代
歴史上、最も中野がクローズアップされるのは、犬大好きの5代将軍、徳川綱吉公が作った「生類憐れみの令」。そのシンボルである犬小屋が現在の中野駅周辺にありました。悪法が生んだ施設ということで区外の方々からは馬鹿にされがちで、忸怩たる思いをしてきたため、私個人としては中野の「黒歴史」として認識していました。
しかし生類憐みの令は実は素晴らしい法律であったとの解釈が近年なされてきました。当時、「切り捨て御免」などという言葉が物語るように応仁の乱から続いた戦国時代、安土桃山時代そして江戸時代においても大阪夏の陣、島原の乱まで続いた戦争は、日本全国に人を殺めることに対して躊躇ない感覚を醸成しました。
生類というのは人間も含めており、当時特に子供、老人に対して迫害があった社会情勢下において福祉的、人権擁護の観点から法律が定められました。犬に関しては1600年代前半に野犬が町中に溢れかえるという社会問題であり、犬小屋を作ったという説があります。生類憐れみの令は現代社会にとっては当たり前である人権擁護、動物愛護の感性を育む重要な法律であったとの解釈なのです。
そう考えると犬小屋は黒歴史ではなく、人権擁護、動物愛護のシンボリックな施設であり、中野区の輝かしい歴史であります。私は中野区議会議員になって初めての質問でこのことについて触れさせていただきました。その後、区の広報としてもメディアでこのことを発信し、郷土愛につながる事実であると実感しているところです。
その後、犬小屋はなくなり、桃の木がたくさん植えられ、桃園と呼ばれるようになりました。一般人も入ることを許された園ということで、日本初の公園といえるそうです。また桃園は花見の名所で花見文化の形成に一躍買ったとのことです(※1)。
明治・大正時代
1889年(明治22年)、中央線の全身である甲武鉄道は新宿から立川までを開業し、東中野駅から立川駅までの直線距離は27kmで、現在のローカル線において、直線距離の長さは全国3位で北海道の1・2位に次ぎます。甲武鉄道の当時の経営陣が、思い切って線を引いたとの逸話もあります。それだけ整備しやすい田畑だけの地域だったとも考えられます(※2)。
1897年(明治30年)に陸軍鉄道大隊ができて鉄道研究が行われます。
そして甲武鉄道は1904年(明治37年)8月になると、今の市ヶ谷と飯田橋の間あたりにあった飯田町駅と中野駅の区間を電化、日本初の電車としました。国電つまりJRの発祥の地といえる、始発・終着駅でありました。現在、飯田町駅はないため、中野駅は現存する日本最古の電車の始発駅といえるわけです。
今からちょうど100年前の1919年になると中野駅から東京駅、そして東京駅から今でいう山手線から時計回りで品川、新宿、池袋、上野駅へと乗り換えなしで行けた時代がありました。『の』の字運転と呼ばれた時代です(※2)。
当時の山手線にあたる線路は上野、神田間が繋がっていなかったそうなので、中野・上野が始発駅になるわけです。これは私の推測ですが、そのために中野駅に車両を止める電車区があるのだろうと思います。中野駅というのは中央線における重要拠点だったわけです。
1923年(大正12年)の関東大震災を経て、1925年に上野-神田間がつながり、山手線は環状線となります。
ちなみに、今年でちょうど百年ということで何かイベントはできないかJR東日本の方に聞いたのですが、現在、中央線と山手線の線路はつながっていないということで物理的に不可能ということです。そして戦時中は陸軍省の電信連隊があり、それは当時のICT研究拠点の元祖ともいえる拠点でありました。
昭和・平成時代
その後、警察大学校、中野区役所、労働省関連施設であった全国勤労青少年会館(現・中野サンプラザ)、日本電信電話公社の施設であった中野電電ビル(現・NTTドコモ中野ビル)などの公共施設ができました。そして2001年に警察大学校は府中に移転、現在のオフィスと大学と公園の姿になりました。また、つけ麺は中野に店を構える大勝軒が発祥であることも付け加えます(※4)。
郷土愛を育むために
多くの中野区立小学校が社会科見学の行先としている歴史民俗資料館でこのような誇らしい歴史を伝えていただきたいです。また中野サンプラザや新しい区役所の天望エリアから、AR技術によって犬小屋の広さが見え、日本初の公園・電車はどういう様子だったのか、当時覗き見ることができなかった陸軍施設はどのような場所だったのか、そんな歴史が見えるコンテンツがあってもよいのではないでしょうか。
また当時犬小屋があった四季の森公園で犬のイベントなどをすれば、「一日限りの復活、中野の犬小屋」などというインパクトのある事業を展開できると思います。
私の議会における質問原稿を再編集するとともに私見を申し上げさせていただきました。 国の方針・時代によって翻弄されながらも人権擁護、動物愛護、花見、公園、電車、通信、つけ麺、様々な発祥、起源、最先端のものがたくさんある中野に誇りを持ち、そしてそれが郷土愛醸成への一助となることを祈念しまして、結びの言葉とします。
1.J:COMチャンネル中野の番組のピックアップなかの第56回(2017年12月1日~2018年1月31日放送)「なかの公園物語」
2. JR中央線、まっすぐな路線なぜ カギは蒸気機関車 「地理的に最も合理的なルート」2016/5/10 日本経済新聞朝刊
3.日本部品供給装置工業会HP
4.東京ラーメンマニアHP
加藤 拓磨 中野区議会議員 公式サイト