一橋大学竹内弘高ゼミの先輩との会話の中で「先生から学んだことを次の世代に」という話になり。私も同じ気持ちなのだけど、会話が終わったあと、改めて、それは何だろうと考えた。
ふと、こう書いていて気づいたのだけど、私は謙虚なつもりではあるけれど、幼い頃から人から学ぶのが苦手で。幼稚園から大学に至るまで、先生を先生として見たことがあまりないという事実にいま気づいてしまった。幼稚園、小学校はどちらかというと先生は「いきものがかり」的な人であり。尊敬できる先生っぽい人に出会ったのは札幌南高校に入ってからだろうか。特に担任の安田先生、政治経済の澤田先生、倫理の三浦先生にはお世話になり。
大学時代の先生も、当時は「教える」ということに熱くない人もいたわけで。今は大学も「教える」ということが下手だと、いろいろ辛い想いをする時代だけど。もっとも、教えることが下手だったり、情熱がなかったとしても、研究者、論者として尊敬する人もいるわけで。休講多めで、講義がある日はぶっきらぼうだったが、アウトプットがいちいち熱い海老坂武先生なんかがそうだった。行動する知識人のあり方を僕は海老坂先生の背中から、しかも教室外で学んだ。
話を戻そう。竹内弘高先生は、当時の一橋大学では何から何まで規格外だった。郊外のもうすぐ閉じる小平キャンパスで会った先生は強烈にオシャレだった。そういうカタチだけではなく、まず、シラバスがぶっ飛んでいた。「この講義は国際社会で活躍するリーダーを養成するためにある」と。ケースディスカッションなど、手法も当時からすると新しく。
社会学を学ぶために一橋大学に入ったのに、いとも簡単に転学部して竹内ゼミへ。死ぬほど学び、よく遊んだ。企業とのプロジェクト、国内外でのゼミ合宿、誕生会、クリスマスなどのパーティー企画、スキー合宿、青山の竹内邸での各種企画などいちいち充実していた。
教え子視点ではなく、教員視点で学んだことはを振り返ってみよう。突き詰めると三つで。違う世界を見せてあげること、高い当たり前基準を提示すること、愛を伝えること。これかな。まだまだ出来ていないけど、模索中。
あとは、プロは上手いのは当たり前で、すごくなくてはならないというのは、ANTHEMの柴田直人さんから学んだことだけど、今思うと、それを始めて感じた人物が竹内先生だったかな。
市川の国府台にあるキャンパスでの僕は、一橋大学小平キャンパスの竹内弘高先生なみにいい意味で浮いている。ファッションは先生の背中が見えてきた。自主ゼミでの三浦半島泊まり込み勉強会、他大生の上級生に立ち向かうインカレゼミ、演習での各種フィールドワークなど、面白い取り組みもやっている、つもりだ。でも、まだまだだな。
さ、今日も謙虚に、頑張りますかね。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年2月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。