北尾光司が亡くなった。「亡くなっていた」という表現の方が正しい。2月10日に慢性腎不全で亡くなっていたという。奇しくも、プロレスデビュー戦と同じ日だった。55歳という早すぎる死だった。公になったのは、3月29日だった。
北尾光司さん波乱の人生に幕 豊かな才能開花できず
#sumo #大相撲 #双羽黒 #北尾光司 #慢性腎不全https://t.co/oe0EhRRp1Y— 日刊スポーツ (@nikkansports) 2019年3月29日
あまり相撲に熱くない私だが、北尾→双葉黒の快進撃には率直に強さを感じ。ただ、あまりの光と同様に、闇のようなものを感じていた。その後の廃業騒動も衝撃だったが、心のどこかで「やっぱり・・・」と思う部分があった。人を疑ってはいけないなと思うが、これは芸能人やスポーツ選手が逮捕されたり、不祥事を起こしたときと同じ感情であり。こういうイヤな予感は当たるものである。
その後、北尾光司はプロレスラー、格闘家になった。数々の「しょっぱい」出来事が忘れられない。1990年2月10日の新日本プロレス東京ドーム大会でのデビュー戦は語り草になっている。サングラスに革ジャンと、黄色い派手なコスチュームで入場してきた北尾。入場テーマの「超闘王のテーマ」をつくったのはデーモン小暮閣下だった。いちいち決めポーズをするのが寒かった。
私はこの日、日本のプロレスの何かが変わるのではないかと期待していたが、この日の北尾のデビュー戦はプロレス史に残る汚点となった。クラッシャー・バンバン・ビガロをギロチンドロップで仕留めたのだが、ロープに飛ぶ方向を間違えるという「ダメだこりゃ」という展開だったのだ。
なお、この日、闘ったクラッシャー・バンバン・ビガロも2007年に亡くなっている。いま思うと、このギロチンドロップが致命傷となったのだろうか(そんなわけはない)。また、ロープに飛ぶ方向を間違えるというネタは、90年代前半の学生プロレスでも度々ネタになった。
この日の東京ドーム大会は、AWA世界ヘビー級選手権試合で、マサ斎藤が王者ラリー・ズビスコに挑戦しベルトをダッシュしたり、新日本プロレスと全日本プロレスの看板外国人選手であるビッグバン・ベイダーとスタン・ハンセンが文字通りリングが壊れそうな名勝負を展開したり、ジャンボ鶴田&谷津嘉章の参戦、天龍と長州のタッグ対決、国会議員になった後のアントニオ猪木の復活試合(相手は橋本&蝶野で試合前の「やる前から負けること考えるバカいるかよ」「ときはきた」発言が話題に)など、話題がてんこ盛りだったが、きっと北尾があまりにもしょっぱくツンドラ地帯をつくったので、それをかき消すべく熱くなったのではないかと思ったりもしてみる。
その後も、北尾の試合はしょっぱく、練習もせず、トラブルを起こしまくる。新日本プロレスを離脱し、SWSに参戦したが、その際も「八百長野郎」発言が問題に。
ただ、なぜか空手家となりUWFインターナショナルに参戦し、高田延彦と試合をしたあたりから、よい意味でのヒール的な味が出始めており。事実、高田対北尾は、悪を高田が成敗するという意味で、わかりやすいプロレス的構図で。高田が北尾をハイキックでKOしたのは圧巻だった。
また、1997年に東京ドームで行われた、PRIDE.1でのネイサン・ジョーンズ戦も忘れられない。アームロックで勝利。会場で見ていたが、ヒールの北尾が実によく輝いていた。その後、PRIDE.4での引退式もなぜか感動的だった。
というわけで、プロレスファンとしては最高のヒールとして見ざるを得ない北尾だったが、何かこう、不器用で、居場所のないような、規格外のような、そんな雰囲気を醸し出していた。早すぎる死が残念でならない。
いや、輪島も北尾も、ぶっちゃけトラブルを起こしてからのプロレス参戦であり。しょっぱい印象しかないわけだが。とはいえ、同世代の男子が昔のプロレスを振り返る際に、触れざるを得ない存在である。
合掌。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年3月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。