英ブレグジット:EU離脱の国民投票に至る政治劇 英BBC「混乱の10年」から

小林 恭子

(新聞通信調査会が発行する「メディア展望」3月号の筆者記事に補足しました。)

英国は本当に欧州連合(EU)から離脱する(「ブレグジット」)ことができるのか?

離脱協定承認への道を模索するテリーザ・メイ首相(写真は1月21日、英首相府サイトより:編集部)

メイ政権とEU側が昨年11月に合意した、離脱の条件を決める「離脱協定案」が、3月29日(当初の離脱予定日)に下院で否決されたことで、先行きが不透明になっている。同離脱案が否決されたのは、これで3回目だ。

先週に引き続き、下院ではメイ案に関わる代案づくりの作業が続いているが、1つの案に絞り切れていない。新たな離脱予定日4月12日までに作業が間に合うかどうかは、分からない。先週末までに可決されていれば、5月22日まで離脱日が延長される予定だったが、これが実現しなかったため、「合意なしの離脱」となるか、メイ首相が新たな延長をEUに持ち掛けるか。あるいは、下院が「ソフトな離脱案」でまとまった場合、メイ首相はこれに応じるのかどうか。

英BBCは、1月28日から3週にわたり、「インサイト欧州―混乱の10年」という題名のドキュメンタリー番組を放送した。第1回目(「私たちは辞める」)では、離脱を決めるまでの英国とEU首脳陣との丁々発止の交渉をつづった。

この番組を紹介しながら、なぜ英国はこのような状況に陥ったのかについて、メイ首相が登場する前の段階から探ってみたい。

欧州懐疑派と格闘してきた保守党

欧州統合の動きについて反発する理念を持つ、いわゆる「欧州懐疑派」は、少なくとも過去半世紀以上、英国の中でくすぶってきた。

第2次世界大戦後、フランスとドイツを中心として大陸の欧州諸国が統合に向けて動く一方で、英国は欧州経済共同体(EEC)に1973年に加盟するものの、独立独歩の立場を維持してきた。現在はEU加盟国だが欧州の単一通貨ユーロを導入せず、国境検査なしで往来できるシェンゲン協定にも参加してない。

2010年5月、保守党は13年ぶりに労働党から政権を奪回した。親EUの自由民主党との連立政権である。

クレッグ副首相・自民党党首(当時、以下同)によると、キャメロン首相(保守党党首)は「欧州問題ばかり繰り返して取り上げる政権にはしないと約束した」という(BBC「インサイト欧州―混乱の10年」より。以下、引用は同番組から)。しかし、事態は逆となった。

なぜ、EU脱退の声が強くなった?

2004年、EUは東欧諸国を含む10か国を新加盟国として迎え、英国にはポーランド、ハンガリー、チェコなどからの移民が急速に増えた。英国はほかのEU諸国とは異なり、当初から新規EU市民の受け入れに制限を付けず、学校や医療現場はその対応に追われた。低所得者層は、新EU市民に「職を奪われた」と感じた。

ここで補足しておきたいのが、よくブレグジット発生の理由として挙げられる、「反移民感情」についてだ。多くの報道では長々と説明するスペースがなく、端折る形で「反移民感情が高まって」と書く。自分もそう書くことがある。

しかし、その意味は「外国人嫌い」というわけではない。ロンドンに一度でも来たことがある方は、道行く人々の人種の多様性に驚くはずだ。また、ほかの地域に行っても、見た目だけでは誰が「外国人」なのかは分からない。

それでも、旧東欧からの新EU市民が摩擦を引き起こすことになったのは、英国が単一市場の一部であること、つまり、モノ、サービス、資本に加えて人の自由な往来の原則に合意しているため、流入に制限をかけられない状況が生じたからだ。人が単に多くやってくるだけではなく、「無制限に」やってくることが問題視された。なぜ無制限なのか?「EUに加盟しているから」なのだ。こうして、不満の矛先はEUに向かった。

その上、2007~8年の世界金融危機、これに続くユーロ危機が発生したことで、英国はユーロに参加していないのにもかかわらず、ユーロ圏を救うための財政支援を求められたことで、さらに反EU感情が高まった。

キャメロン首相の賭けとは

2011年10月24日、キャメロン政権に「赤信号」が灯る。

デーヴィッド・キャメロン英元首相(Wikipediaより:編集部)

この日、懐疑派の声に押された英下院がEUからの脱退などを問う国民投票の実施を求める動議を投票に諮った。賛成111票、反対483票で否決されたが、80票前後の賛成票は保守党議員によるものだった。キャメロン政権は、懐疑派の対処に本腰を入れざるを得なくなった。

この頃、ユーロ圏の危機のさらなる拡大を防止するため、メルケル独首相とサルコジ仏大統領は圏内の財政統合を計画していた。そのためにはEU基本条約の改正が必要だった。条約改正となれば全EU加盟国の合意が必要となり、英国でも下院の承認が必須となった。欧州懐疑派が抵抗するのは目に見えていた。

そこでキャメロン政権が考え付いたのは、EU市民の英国への移住に制限をかける、さらなる統合の深化には参加しないなどの「譲歩」をEUから得ることだった。「これだけの譲歩を得たのだから、条約改正に賛成してほしい、というつもりだった」(オズボーン財務相)。

2011年2月のEU首脳会議に、キャメロンはこの譲歩案を持って臨んだ。

サルコジの激怒

フランス側は激怒した。「キャメロン首相はユーロ圏の規則を自分が変更できると思っていた。英国はユーロ圏ではないのに、だ。意味をなさない」(サルコジ大統領)。「私たちの手を無理に動かそうとすれば、あなたは何も得られないだろう」、「譲歩はできない」(同)。

ニコラ・サルコジ仏元大統領(Wikipediaより:編集部)

サルコジ側は「奥の手」を使った。EU加盟国の満場一致の合意が必要となる条約改正ではなく、財政統合を政府間協定としたのである。参加したい国だけが参加できるようにして成立させるつもりだった。「8秒で解決できることを8時間もかけて議論する必要はない」(サルコジ)。

キャメロン自身も奥の手を持っていた。司法専門家によるとサルコジ・メルケル主導の財政統合は条約改正なしには達成できず、政府間協定を使うのは違法だった。しかし、EU側の司法判断では「合法」とされた。

午前4時、首脳陣が政府間協定案に票を入れた。拒否権を発動したのはキャメロンだけ。英国は孤立した。

2012年9月までに、保守党幹部は国民投票の実施を具体的に考え始めた。

「国民投票が行われれば保守党は分裂する。もし離脱となれば世界の中の英国の地位が大きく低下し、経済にも悪影響だ」(オズボーン財務相)という主張に対し、ヘイグ外相は「やらないと逆に保守党は分裂する」と述べた。

キャメロンはどう思っていた?

キャメロンの広報秘書はこう語る。「首相は国民投票が危険なことは十分分かっていた。それでもやろうと決めたのは、政治的に意味があったから。EUの拡大路線に対し、国民は居心地の悪さを感じていた。この人たちに発言の機会を与えるべきだ、それが民主主義だとキャメロンは思った」。

2013年1月23日、ブルームバーグ社のロンドン本部で、キャメロンは「次の総選挙で保守党が過半数の議席を獲得したら、国民投票を行う」と演説で述べた。その前にまず「英国とEUの関係を変えるための交渉をする。EUの基本条約を変えるほどの大きな変化になるだろう」、と続けた。

しかし、メルケルに反対された

アンゲラ・メルケル独首相(CDU公式サイトより:編集部)

2014年2月末、キャメロンはメルケルを官邸に招待し、国民投票についての感触を打診した。メルケルは賛同しなかった。

「英国はEUからすでに大きな譲歩を得ている。私は鉄のカーテンの外にいた東ドイツ出身だ。鉄のカーテンがなくなり、今、私たちはこの欧州大陸で一つにまとまることができる。この点を見失ってはいけないと思う」。

5月の欧州議会選挙では、英国のEUからの脱退を求める英国独立党(UKIP)が英国に割り当てられた議席の中で最大数を獲得した。「純移民が大きく増えた。そのすべてがEU市民だ。英国は対処手段を持っていない」(ファラージUKIP党首)。

反ユンカーで失敗

キャメロン政権は、欧州連邦主義の信奉者で元ルクセンブルク首相のユンカーが次期欧州委員長の候補に上ったことを知り、これを阻止しようと手を尽くした。ユンカーが欧州委員長になれば、EUがさらなる拡大・統合深化に進むだろうと思ったからだ。

キャメロンは、ファンロンパイ欧州委員長を官邸に呼んだ。

「キャメロンは、ユンカー候補をブロックすることで自分がいかに強いかを示そうとしていた」(ファンロンパイ欧州委員長)。

「私はいやいや官邸に向かった。これまでは、自分から望んで時間を作ってもらい、キャメロンに会いに行った。しかし、今回は招待された。何かあるなと思った」。

官邸の居間でファンロンパイと話していたキャメロンは、「突然、反ユンカーの票を集めてくれないかと私に言った」。

ファンロンパイは「それは難しい。ユンカーは(欧州議会の運営の中心を担う中道右派)欧州人民党グループ(EPP)の候補者だ。反ユンカー票を得るのは困難だ」。

不可能な相談と思ったファンロンパイは、「できない」と言った。自分がロンドンにやってきたのは、キャメロンから命令を受けるためではない、と思ったという。

「すると突然、キャメロンが立ち上がり、これで話が終わったと告げた」。取りつく島もなく、キャメロンはファンロンパイをドアまで連れて行った。「これが私が最後に英国の首相官邸に行った時だ」。

キャメロンの反ユンカー運動は、成功しなかった。

移民の流入制限に、支持得られず

国内では保守党議員2人がUKIPに移籍し、これ以上の「出血」を避けるため、14年秋、キャメロンは保守党の党大会でEU市民を含む移民の流入制限をEU指導部と交渉することを宣言した。

メルケルに打診したところ、「EU市民の移動に数値目標を設置することは賛同できない」と言われ、キャメロン政権は社会保障へのアクセスを限定する案を追求することにした。

2015年5月の総選挙で、保守党は思いがけず過半数の議席を獲得し、単独政権が成立した。

トゥスクも、オランドも国民投票に反対

総選挙後まもなくキャメロンと会ったトゥスク欧州理事会議長は「なぜ国民投票を決めたのか。非常に危険なばかげた行為なのに」と告げた。その理由が「与党の内情」であったことに驚いた。「キャメロンは自分の勝利の犠牲になった」。

9月、キャメロンはフランスのオランド大統領を英国に招待した。国民投票実施についての支持を期待していた。

「私はキャメロンに国民投票をやる必要はないと言った」(オランド大統領)。「選挙戦の公約が実行できないのは、よくあることだ」。

キャメロンはオランドに対し、EU市民の英国への流入をどうにかしたいと訴えた。単一市場に例外を認めるよう、助けてくれないか、と。

「英国に人の移動の自由の例外が認められれば、他の国も同じことを求める」(オランド大統領)。「もし英国で国民投票が行われれば、ほかの加盟国も後追いする」。

メルケルもそしてオランドも、EUの基本的な取り決めである人の自由の移動について譲歩はできない、とキャメロンに伝えた。

2016年2月のEU首脳会議。英国がEUから譲歩を取り付けることができたのは、主として3点だった。

(1)EU移民の社会保障の利用に制限を課す

(2)EUの統合深化から除外される

(3)非ユーロ圏の国としての権利が保護される。

英国内では評価されず、国民投票へ

しかし、英メディアや政界の反応は鈍かった。

キャメロンは、離脱の賛否を問う国民投票の実施を正式に宣言する。

2016年6月23日の国民投票では、離脱派が僅差で勝利。残留派を主導したキャメロンは、辞任の意を表明した。

数日後、キャメロンは最後のEU首脳会議に出席する。「悲しかった。キャメロンばかりか、英国がEUを去っていくことになるからだ。EUに夜を思わせる影が落ちたようだった」(ユンカー)。

BBCの「混乱の10年」シリーズは、2回目にはギリシャの債務危機を、最終3回目には欧州にやってきた大量の難民への対応を取り上げた。


編集部より;この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2019年4月2日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。