『日本国紀』について私が書いた『「日本国紀」は世紀の名作かトンデモ本か』のなかで、北里柴三郎を江戸時代の優れた教育システムが生んだ人材とする『日本国紀』の記述に対して厳しく異論を唱えている。
新5000円札に北里柴三郎の肖像が採用されたことでもあり、関係部分を少し短縮して紹介しておこう。
江戸時代の識字率とか教育水準が高かったという都市伝説は広く信じられているので、『日本国紀』だけを責めるつもりはない。しかし、「世界最高の教育水準」「世界一高い識字率」などといわれると困ってしまう。
日本語の識字率というのは漢字を相当に使いこなせる人の割合で考えるべきだ。現代でも新聞を何とか読むためでも、一千字くらい読み書きできても十分ではない。寺子屋では仮名プラスα以上のレベルは無理だし、江戸時代の識字率は相当に低レベルだったと理解すべきだ。
50文字の仮名を分かる日本人の割合が、数千字の漢字を分かる中国人の割合より多いというのを自慢してもフェアではない。
ただ、この仮名文字に限定した高い識字率を、戦国時代からそうだということを書いてあるのは、江戸時代の成果という間違いをしがちな歴史本のなかでは良心的だ。
藩校については、ほぼ各藩で出そろったのが天保期(1830年代)だということ、漢学のみのカリキュラムで、生徒も上級武士の一部に限定されていたことなどに触れていない。 また、漢学も科挙があった中国や韓国に比べると低水準だったことはいうまでもない。
とくに算術は武士にふさわしくないとされ遠ざけられたので、明治になってアメリカに留学し初の理学博士、そして東京帝国大学総長となった山川健次郎は、会津の日新館で13歳まで学んでいたが、九九を知らなかった。
江戸時代の教育については、これは、多くの人が間違って高い評価をしていて、百田さんもそれを踏襲しているだけだから批判しにくい。しかし、江戸時代の優れた教育の基礎があったから世界で通用したとしている古市公威(土木技師)や北里柴三郎(医学者)は、幕府が倒れたときに13歳くらいで、いずれも、明治新政府のもとでの洋式教育から育った最初の人材だ。
江戸時代が続いていたら彼らが科学者になっていたなどあり得なかったのである。 古市は1869年(明治2年)に開成学校に入学し、大学南校、開成学校諸芸学科を経て、1875年に文部省最初の留学生として欧米諸国へ派遣されることとなり、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)、パリ大学理学部で学んだ。
北里は学問に熱心な庄屋の子で、親戚の学者や塾で学び、1年だけ全国で最も有名な藩校だった熊本藩時習館で学んだが、廃校になったので、新しくできた熊本の医学校でオランダ人に学び、1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)、さらにドイツに留学している。
幕末の変動期にあってたまたま例外的に恵まれた家庭での教育で育ち、明治政府の進める文明開化で才能を花開かせた人で、江戸幕藩体制下の教育システムからでてきた人でないので、江戸時代の教育を誉めるのに引用するのは不適切だ。
庶民が学べる中等教育レベルの学校は、幕末までほとんど皆無に近く、ようやく幕末になって適塾(大阪)とか咸宜園(日田)といった例外的な私塾ができたのみだった。朝鮮では、草堂という漢学を教える塾が村々にあったのと比べて、中等教育の普及は遅れていたのである。
こうした状況なので、明治政府は、ほとんどゼロから一気に全国民を対象にした洋学による公教育制度を、当時としては、世界最先端のかたちで立ち上げたわけで、それが大成功したのである。