上野千鶴子の東大入学式祝辞が話題になっている。全国紙にも掲載されたし、ウェブメディアでも紹介されている。
さっそく賛否を呼んでいる。私の周りでは、どちらかというと賛成、肯定の声が多いが。もちろん、あくまで感覚であってちゃんと調べたわけではない。
今年で74歳になる母とLINEで議論した。「東大生でも、あそこまで言わないと伝わらないのか」「でも、伝えないよりも、伝えた方が良い」という結論になった。
教え子にも意見を聞いてみた。「女性が可愛さを売りにするのは悪なのか?」「女性だから得している側面があることを否定しないでほしい」という意見が女子学生から出た。男子学生からは「男らしさが、辛いです」という「男はつらいよ」論が飛び出した。多様な論点が飛び出し、議論が白熱した。
私の感想はこうだ。「上野千鶴子センセも、東大も平常運転だ」と。
ちょうど先日、共同通信社で書評を担当する機会があった。新刊でなくてもOKとのことなので、私はこの本を選んだ。これは1980年代から約30年に渡る、上野千鶴子の「時局発言集」である。
やや、長い引用ではあるが、私は書評でこんなことを書いた。引用はすべて、北國新聞の2019年3月23日付朝刊より。
文化功労者風を褒め称えるような上品な賛辞は逆に失礼だ。火中の栗を拾い、炎に身を焦がしてきたこともまた、上野の本質だからだ。ここに彼女のすごさがある。
上野の3原則は「挑発にはのる、売られたケンカは買う、乗りかかった舟からは降りない」だ。ただ、彼女は論争的だが、好戦的ではない。ふりかかった火の粉を払ってきたまでだ。「また女が文句を言っている」と矮小化される話や芸能ネタにも理論的な支えを与え、社会問題として意味付けてきた。芸能人の子連れ出勤をめぐる「アグネス論争」などがそうだ。
ポジティブな炎上も存在する。声をあげ、論争を誘発しつつ、解決策を提示する。これも知識人の仕事だ。上野とは放火魔ではなく「消火魔」なのだ。
今回の祝辞は、上野千鶴子の伝統芸そのものだった。教え子たちが感じたように、一部の賢くて強い女性を前提とした議論になっていないか、男性や、多様なプロフィールのものに対する配慮が足りないのではないか、など。「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です」と言う上野のこの祝辞は、とはいえ、受験強者の論理に聞こえてしまう。もちろん、もともと東大という日本のトップ校の入学式での、本来、ターゲットを限定した祝辞ではあるものの。いや、そもそも、祝辞なのか、これ、とツッコミたくなる人もいることだろう。ただ、ツッコミどころや、その後の延焼も含めて、これぞ上野千鶴子だった。
個人的には、女性差別について論じた前半が全国紙では取り上げられ、見出しにもなっていたが、私は後半の学問のあり方に関する部分も同じくらい報じられるべきだと考える。まさに「情報生産者」としての姿勢を示したものだった。「社会的養成」なる経済団体の論理による、すぐに使える(結果、使えない)知識が大学に期待される今日このごろである。しかし、この答のないことに対して自ら問いを立てて、答えるという力が今日ほど求められている時代はないだろう。
別の視点でいうと、これもまた、東大らしさではないか。東大や東大生は過度に注目され、神聖化されてきた。ただ、東大は常に先端であるだけでなく、多様であり続けた。いや、上野が指摘するように、いまだに男社会という側面もあるが、とはいえ、様々なものを取り込み、ときに物議を醸してきた。
上野千鶴子と東大は平常運転だった。うん。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2019年4月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。