国後・択捉も千島列島ではなかった⁈ これで四島戻ってくるか?

4月19日の産経デジタルが「日露和親条約以前から北方4島日本領 『大英帝国』作成地図で明示」との見出しで、四島一括返還の重要証拠となり得る特大スクープ記事を報じた。

英国外務省が英国国立公文書館で保管していた二種類の「日本、クリル(千島)列島」と題する地図が、どちらも国後・択捉・歯舞・色丹の四島が日本領として同じ色に塗られ、千島列島と峻別されているというのだ。

二枚の地図は1811年にアーロン・アロースミスが作製した「日本、クリル(千島)列島」と、1840年にジェームズ・ワイルドが作製した「日本、クリル(同)列島」。記事によれば製作者二人は当時ともに国王付きの学者として活躍した信頼のおける人物という。

筆者は北方領土問題のポイントが、ヤルタ会談やポツダム宣言を踏まえて1951年9月に結ばれたサンフランシスコ平和条約(以下、サ条約)に次のように書かれていることにある、と2月18日の投稿「台湾と千島、その法的地位」で書いた。(太字は筆者)

第二章 領域 第二条

(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する

つまり、我が国が返還を主張する北方四島、すなわち国後・択捉・歯舞・色丹の何れもが千島列島でない日本固有の領土であることの証拠が示せれば、それら四島をサ条約で放棄したことにならないという訳だ。が、原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点』(渓水社)には以下のように書かれていた。

・・占領期間中に作成された一連の英文調書に北方領土に関するものは七冊あり、そのうち三冊が北方の領土を扱っていた。それらは1946年11月作成の「千島列島、歯舞、色丹」、1949年1月作成の「樺太」、同年4月作成の「南千島、歯舞、色丹」であるが、日本では全て非公開であり、その内容については長い間想像の域を出なかった。1994年、作成から約半世紀を経て、このうち最初の「千島列島、歯舞、色丹」がオーストラリア公文書館で発見された。この調書は、北方領土問題を理解する上で貴重な資料であるが、その内容は現在の「四島返還論」に不都合なものを含んでおり、政府が非公開にせざるを得なかったのは理解できる。

中でも特筆すべきは、この問題の争点の一つ「千島の範囲」であり、国後・択捉が千島列島の一部として扱われている点である。千島の範囲に関しては、国際法、言語学、歴史、地理学及び政治学的見地等々、これまで様々な議論がなされてきた。しかし、外務省自ら国後・択捉は千島列島の一部であるという認識をしていたことを証明する資料が発見された以上、この問題に関する議論の余地は基本的に消滅したといえよう。

同調書では歯舞・色丹の二島群が千島列島の一部でない点が強調されている。「歯舞群島及び色丹島」と題された第二章では、ロシアや米国の航行要覧等を含んだ様々な国の史料及び百科事典を参照し、この二島群は千島列島とは異なり、北海道の一部である点を強調している。・・

この様な経緯を踏まえれば、今回、英国の公文書たる大英帝国時代の地図が歯舞・色丹のみならず国後・択捉まで日本固有の領土として色分けしていたことが、どれほど今後の日露交渉の援軍になるか計り知れない。6月に予定される安倍・プーチン会談を間近に控えたこの時期だ、「産経よ、よくやった」と思わず叫んでしまった。

斯くなる上は3月27日の筆者投稿「「在野」の近現代史研究家が『ダレスの恫喝』原文を読んで考えたこと」の結論(二島しか戻らない)を潔く取り消して頭を丸めたい(これから散髪屋に行っていつも3㎜のところ1mmの丸刈りにして来ます)。

安倍首相には、御代代わりと令和効果に加えて北方四島返還と消費税率据置を背景にして衆参同日選に大勝し、一気呵成に憲法改正にまでなだれ込んでいただきたい。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。